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調べ物をしながら今一度用語の確認。
すべてWikipediaから引用。ほとんどいじってないから転載というのが正しいかもしれない。
あとでリンクと個別に要約し直す予定。リンクしました。
ちなみに書いておきますが私がこれらの語を調べるために参照したのはWikipediaだけではありません。また、これらのリンク先の言及がいつでも正しいとは限りません。とりあえず現時点(2008.11.19)では内容に問題がないわけではないが検証可能性の観点から問題ない記事であることを書いておきます。
理論物理学:
理論的なモデルや数式を元に、既知の実験事実を説明したり、未知の物質などを予言したりする演繹的なアプローチを行う方法論。
実験物理学:
実験や観測を通して自然現象・物理現象を理解しようとする物理学の研究方法のひとつ。
宇宙物理学におけるようなコントロール不能な現象に対して、観測手段を工夫することによって特徴的な振る舞いを抽出しようとする試みも実験物理学の範疇に含めるのが普通である。
実証主義:
(科学哲学)実証主義は「一般法則は観察と論理によって“のみ”正当化される」と主張する。主に帰納法がとられていた。
注意。ただし仮説でなく実験を行った場合、実験による観察から得られた見解をそれよりも広い条件範囲に適用する行為は、科学哲学以前に、科学として実証とは認められない。
反証主義:
(私見)科学の領域に入ってくるものに使うべきものであり、非科学を積極的に排除するために使うべきではない。
「信頼性が高い仮説よりも低い仮説をあえて信じることは不合理であるかもしれないが、しかし、それは反証主義の批判対象ではないはずである。」
アドホックな仮説:
ある理論が反証されたときにその反証を否定するためにその理論に後から付けられる補助仮説のことである。
(私見)実際にその仮説が立証されれば理論の補助となるのだから排除すべきではない。ただし理論は補助仮説も含めて仮説として語られるべきだと感じる。
帰納法:
個別的・特殊的な事例から一般的・普遍的な規則を見出そうとする推論方法。
前提が真であるからといって結論が真であるとは限らない。
アブダクション:
ある個別の事象を最も適切に説明しうる仮説を導き出す推論
演繹法:
一般的・普遍的な前提からより個別的・特殊的な結論を得る推論方法。
前提が真であるならば結論も真である。よって前提が間違っていれば必然的に誤った結論が導き出される。
(コメント)帰納法と演繹法の違いは帰納法の項目を参照する方がわかりやすい。
人身攻撃:
Aという人がXと主張する
Aについて何らかの疑惑/問題/いかがわしい点がある
したがって、Xという主張は偽である
・祈りが人工授精を行った女性の妊娠・着床率を上げたとした論文の報告も実験者が詐欺師だったからといって結果が偽であるとは限らない。ただ、もし本当に実験が行われており信頼のできる結果を得ていたのならFirst AuthorやCorresponding Authorは提示された疑問に返答する義務を有するはずで、返答・反駁ができないということは論文で提示した説を放棄したのだと見なされても仕方がないと考える。
http://transact.seesaa.net/article/28144610.html
権威に訴える論証:
Bという人がYと主張する
Bには何らかの(社会的・性格的に)ポジティブな面がある
したがって、Yという主張は真である
A、Bの双方に対して(社会的)立場と主張はまったく切り離して考えるべきものである。
(コメント)実はこういう論調は知恵袋でも結構見かける。
「企業の社員だから庇うんでしょうか?」「(主張を)正当化して私利私欲を得ようとしている」など。
私利私欲を~の方は質問者も回答者も情報が古すぎる。
二世代目の種が死滅するように遺伝子操作ができるなら画期的過ぎて特許を出してもいいしNatureやScienceに載るくらいすごい発見だろう。それができなくて研究している人が多いというのに。
参考:「体験談」信頼できる人からの話
http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20070919/p1
衆人に訴える論証:
多くの人が信じているという理由である命題を真であると論証結論付けること
・多くの人が合っていると感じているから正しいとは限らない。反対に、少数の人しか信じていないから間違っているとも限らない。
たとえば血液型性格判断。
権威に訴える論証(=専門家)⇔衆人に訴える論証(=一般大衆)
そうなんだよね。これらすべてのことは形而上学のことで、科学は基本的に形而下のものを扱ってるからよくわかんないのかもしれない。
11月19日追記:当然書くべきものを忘れていた。
科学:
・ (広義)体系化された知識や経験の総称であり、自然科学、人文科学、社会科学の総称。
・(狭義)科学的方法に基づく学術的な知識、学問。
・(最狭義)自然科学。
science という語は、17世紀の科学革命のころまでは、体系化された知識や経験の総称という意味で用いられてきた。
世の中に見られる現象は、一見不思議なことは数多い。これがなぜかを知りたくなるのであるが、直接にそれを誰かに尋ねることで答えを得るのは難しい。
それに対して、こうすればこうなる、といった事象を集めることから、原因と結果を探してゆくのが科学的方法である。言いかえれば、究極的な目的であるなぜ(Why)を一端棚上げにして、まずいかなる状態で、どのような(How)現象が起きているのかを記述するとこと、どのような条件下で何が起きるかを記録し、それに基づいて因果関係を分析しようとするのが科学である。
(コメント)私が普段意識せずに「科学」を用いている場合は(狭義)の意味で使っている。
ただし人文科学や社会科学の知見も「科学的」として取り入れるのであり、得てしてそういうものは「科学的方法に基づく知識」だったりするのでなぜか上位の概念を孕んだ意味で使っている。うーん、なぜだろう。
未科学(プロトサイエンス):
まだ科学とは呼べないが科学的な方法を用いて研究が行われつつある新しい分野に対して使われる。
意味を端的にいえば「未実証の仮説」である。
未科学の主張を「正しいもの」「確定したもの」とすることはプロトサイエンスの自己定義に反する。
(コメント)この項目は「疑似科学」「未科学」「科学」の違いを図にしてくれているので本当にわかりやすい。
数年前からこの図が区別のための大まかな目安となっている。もちろん見分け難いものもある。
疑似科学:
学問、学説、理論、知識、研究等のうち、その主唱者や研究者が科学であると主張したり科学であるように見せかけたりし ていながら、現時点(As of Today)での知見において科学の要件として広く認められている条件(科学的方法)を十分に満たしていないものを言う。
(私見)正直、疑似科学とニセ科学の違いがわからない。
私はオカルトだろうが宗教だろうが科学のフリをしていてそれが現在の知見と照らし合わせて間違っていたら容赦なく指摘する。たぶん科学のフリが重要なキーワード。
それがなければ私はオカルトや宗教に寛容な部類に入ると思う。
というか疑似科学問題はみんな注目してるからなのか知らないが記事がごちゃごちゃしすぎる。
たくさんあるわりにわかりにくいというか。でも直すほどの技量もないので放置。
(未科学より)
新理論が非常に目新しく、現在の実験結果や事実がその新理論に矛盾もしていないが、主に技術的理由でさらなる評価が困難である、といった場合には、疑似科学とプロトサイエンスとの区別はさらに困難になる。あらゆる学問分野の中でも、物理学や医学の先端分野ではこのような傾向が顕著に見られる。
(私見)これは難しい。本当に難しい。でも、私は「活発な議論が行われない分野は発展しない」と考えている。今のオカルトなんかまさにそうだ。科学はときに正しかったり間違えたりしながら、それでもどんどん正しい方に近づいていく、そういう学問だと考える。
Wikipediaの利点は一つの情報の信頼性がわからなくても情報がつながっているので全体像を把握しやすいところにある。調べ物の終点ではなくて始点として利用すればこれほど使いやすいものはない。
理論物理学者:
自然界の物質・現象そのものを扱うのではなく,それらの振る舞いをあらわすモデルついて研究する物理学者。これらのモデルはほとんどの場合数式を 用いて表現され、理論物理学者はこのモデルをさまざまな数学的手法によって、モデルの振る舞いを検討し,なんらかの物理現象の予測をし,実験事実と突き合 わせ,モデルの妥当性を考察する。
M理論:11次元
超弦理論(超ひも理論):5つ(I型、IIA、IIB、ヘテロSO(32),ヘテロE8×E8)
調べれば調べるほど物理学の泥沼にハマっていきそう。
物理学が理論物理学と実験物理学に分かれてしまった理由がわかる。これは一朝一夕どころか大学4年間で学ぼうとするとかなり大変。
すべてWikipediaから引用。ほとんどいじってないから転載というのが正しいかもしれない。
ちなみに書いておきますが私がこれらの語を調べるために参照したのはWikipediaだけではありません。また、これらのリンク先の言及がいつでも正しいとは限りません。とりあえず現時点(2008.11.19)では内容に問題がないわけではないが検証可能性の観点から問題ない記事であることを書いておきます。
理論物理学:
理論的なモデルや数式を元に、既知の実験事実を説明したり、未知の物質などを予言したりする演繹的なアプローチを行う方法論。
実験物理学:
実験や観測を通して自然現象・物理現象を理解しようとする物理学の研究方法のひとつ。
宇宙物理学におけるようなコントロール不能な現象に対して、観測手段を工夫することによって特徴的な振る舞いを抽出しようとする試みも実験物理学の範疇に含めるのが普通である。
実証主義:
(科学哲学)実証主義は「一般法則は観察と論理によって“のみ”正当化される」と主張する。主に帰納法がとられていた。
注意。ただし仮説でなく実験を行った場合、実験による観察から得られた見解をそれよりも広い条件範囲に適用する行為は、科学哲学以前に、科学として実証とは認められない。
反証主義:
(私見)科学の領域に入ってくるものに使うべきものであり、非科学を積極的に排除するために使うべきではない。
「信頼性が高い仮説よりも低い仮説をあえて信じることは不合理であるかもしれないが、しかし、それは反証主義の批判対象ではないはずである。」
アドホックな仮説:
ある理論が反証されたときにその反証を否定するためにその理論に後から付けられる補助仮説のことである。
(私見)実際にその仮説が立証されれば理論の補助となるのだから排除すべきではない。ただし理論は補助仮説も含めて仮説として語られるべきだと感じる。
帰納法:
個別的・特殊的な事例から一般的・普遍的な規則を見出そうとする推論方法。
前提が真であるからといって結論が真であるとは限らない。
アブダクション:
ある個別の事象を最も適切に説明しうる仮説を導き出す推論
演繹法:
一般的・普遍的な前提からより個別的・特殊的な結論を得る推論方法。
前提が真であるならば結論も真である。よって前提が間違っていれば必然的に誤った結論が導き出される。
(コメント)帰納法と演繹法の違いは帰納法の項目を参照する方がわかりやすい。
人身攻撃:
Aという人がXと主張する
Aについて何らかの疑惑/問題/いかがわしい点がある
したがって、Xという主張は偽である
・祈りが人工授精を行った女性の妊娠・着床率を上げたとした論文の報告も実験者が詐欺師だったからといって結果が偽であるとは限らない。ただ、もし本当に実験が行われており信頼のできる結果を得ていたのならFirst AuthorやCorresponding Authorは提示された疑問に返答する義務を有するはずで、返答・反駁ができないということは論文で提示した説を放棄したのだと見なされても仕方がないと考える。
http://transact.seesaa.net/article/28144610.html
権威に訴える論証:
Bという人がYと主張する
Bには何らかの(社会的・性格的に)ポジティブな面がある
したがって、Yという主張は真である
A、Bの双方に対して(社会的)立場と主張はまったく切り離して考えるべきものである。
(コメント)実はこういう論調は知恵袋でも結構見かける。
「企業の社員だから庇うんでしょうか?」「(主張を)正当化して私利私欲を得ようとしている」など。
私利私欲を~の方は質問者も回答者も情報が古すぎる。
二世代目の種が死滅するように遺伝子操作ができるなら画期的過ぎて特許を出してもいいしNatureやScienceに載るくらいすごい発見だろう。それができなくて研究している人が多いというのに。
参考:「体験談」信頼できる人からの話
http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20070919/p1
衆人に訴える論証:
多くの人が信じているという理由である命題を真であると論証結論付けること
・多くの人が合っていると感じているから正しいとは限らない。反対に、少数の人しか信じていないから間違っているとも限らない。
たとえば血液型性格判断。
権威に訴える論証(=専門家)⇔衆人に訴える論証(=一般大衆)
そうなんだよね。これらすべてのことは形而上学のことで、科学は基本的に形而下のものを扱ってるからよくわかんないのかもしれない。
11月19日追記:当然書くべきものを忘れていた。
科学:
・ (広義)体系化された知識や経験の総称であり、自然科学、人文科学、社会科学の総称。
・(狭義)科学的方法に基づく学術的な知識、学問。
・(最狭義)自然科学。
science という語は、17世紀の科学革命のころまでは、体系化された知識や経験の総称という意味で用いられてきた。
世の中に見られる現象は、一見不思議なことは数多い。これがなぜかを知りたくなるのであるが、直接にそれを誰かに尋ねることで答えを得るのは難しい。
それに対して、こうすればこうなる、といった事象を集めることから、原因と結果を探してゆくのが科学的方法である。言いかえれば、究極的な目的であるなぜ(Why)を一端棚上げにして、まずいかなる状態で、どのような(How)現象が起きているのかを記述するとこと、どのような条件下で何が起きるかを記録し、それに基づいて因果関係を分析しようとするのが科学である。
(コメント)私が普段意識せずに「科学」を用いている場合は(狭義)の意味で使っている。
ただし人文科学や社会科学の知見も「科学的」として取り入れるのであり、得てしてそういうものは「科学的方法に基づく知識」だったりするのでなぜか上位の概念を孕んだ意味で使っている。うーん、なぜだろう。
未科学(プロトサイエンス):
まだ科学とは呼べないが科学的な方法を用いて研究が行われつつある新しい分野に対して使われる。
意味を端的にいえば「未実証の仮説」である。
未科学の主張を「正しいもの」「確定したもの」とすることはプロトサイエンスの自己定義に反する。
(コメント)この項目は「疑似科学」「未科学」「科学」の違いを図にしてくれているので本当にわかりやすい。
数年前からこの図が区別のための大まかな目安となっている。もちろん見分け難いものもある。
疑似科学:
学問、学説、理論、知識、研究等のうち、その主唱者や研究者が科学であると主張したり科学であるように見せかけたりし ていながら、現時点(As of Today)での知見において科学の要件として広く認められている条件(科学的方法)を十分に満たしていないものを言う。
(私見)正直、疑似科学とニセ科学の違いがわからない。
私はオカルトだろうが宗教だろうが科学のフリをしていてそれが現在の知見と照らし合わせて間違っていたら容赦なく指摘する。たぶん科学のフリが重要なキーワード。
それがなければ私はオカルトや宗教に寛容な部類に入ると思う。
というか疑似科学問題はみんな注目してるからなのか知らないが記事がごちゃごちゃしすぎる。
たくさんあるわりにわかりにくいというか。でも直すほどの技量もないので放置。
(未科学より)
新理論が非常に目新しく、現在の実験結果や事実がその新理論に矛盾もしていないが、主に技術的理由でさらなる評価が困難である、といった場合には、疑似科学とプロトサイエンスとの区別はさらに困難になる。あらゆる学問分野の中でも、物理学や医学の先端分野ではこのような傾向が顕著に見られる。
(私見)これは難しい。本当に難しい。でも、私は「活発な議論が行われない分野は発展しない」と考えている。今のオカルトなんかまさにそうだ。科学はときに正しかったり間違えたりしながら、それでもどんどん正しい方に近づいていく、そういう学問だと考える。
Wikipediaの利点は一つの情報の信頼性がわからなくても情報がつながっているので全体像を把握しやすいところにある。調べ物の終点ではなくて始点として利用すればこれほど使いやすいものはない。
理論物理学者:
自然界の物質・現象そのものを扱うのではなく,それらの振る舞いをあらわすモデルついて研究する物理学者。これらのモデルはほとんどの場合数式を 用いて表現され、理論物理学者はこのモデルをさまざまな数学的手法によって、モデルの振る舞いを検討し,なんらかの物理現象の予測をし,実験事実と突き合 わせ,モデルの妥当性を考察する。
M理論:11次元
超弦理論(超ひも理論):5つ(I型、IIA、IIB、ヘテロSO(32),ヘテロE8×E8)
調べれば調べるほど物理学の泥沼にハマっていきそう。
物理学が理論物理学と実験物理学に分かれてしまった理由がわかる。これは一朝一夕どころか大学4年間で学ぼうとするとかなり大変。
PR
この記事にコメントする
用語の摺り合わせは大切ですね
議論の際に使っている言葉自体は同じでありながら、その言葉の理解の仕方が全く異なっていると、その違いが原因で余計なエネルギーを消費することになります。
しかし、所詮言葉は人間が作り出したものである以上完璧でもなければ絶対的なものでもなく、その意味では(自然)科学的なものではありません。
意味論は一つの学問になっているぐらいなので、言葉は未だそしておそらく永遠に未完成な道具です。
そう言ってしまうと話はお終いなので、そんな物なんだということを分かった上で、せめて重要なキーワードに関しては、その違いを出来る限り最小値に納めることは議論を進めるためには非常に有効です。
それでも実際には背景となる個人的主観はどうしても反映されてしまいます。
例えば私の「仮説」という言葉も理論科学では科学の範疇でも実験科学では科学ではないというのがharesora38さんのお考えですが、理論科学と実験科学は共に科学の双璧であり、(最近はこの二つにシミュレーション:仮想実験を中心とする計算科学という両者の折衷の様な科学様式が成立したと言われているようですが)どちらの科学においても仮説そのものは「科学」です。
ただ前者が事実の裏付けが“後”で行う(正確にはその時点では実験が不可能なので行えない)ことになるのに対して、後者が事実確認を“先”に行っている(行うことが出来る)というだけのことであり、最先端科学、特に物理学においては始めに理論科学でモデルを想定し、そのモデルに基づき実験科学がその理論の実証をするというパターンの繰り返しです。
従ってharesoraさんの主観では理論科学での仮説は科学ではないと思われていても、科学界での通念では理論科学の仮説も科学的論理性によって、ある事象を“より”上手に、そして現行科学を否定したり大幅な修正などを加えずに、それ以前の科学体系とも整合性を保ったまま包括的に説明できれば科学的なものとして認められます。
特に仮説を立てる意味は“従来の定説では説明出来ない事象を合理的に(美しく)かつ従来の定説と矛盾なく”説明出来ることにあります。
それがまさに相対性理論であり、ニュートン力学的古典物理は新しい理論においては“誤り”ではなく真実のいわば“近似値”であったとして新しい理論に包括させて説明されています。
例えば私の仮説では余剰次元というものを前提としてこの世界及びこの世界で成り立つ科学体系は、この次元を内包するより上位の次元の物理に包括されるが、下位の次元での科学では上位の次元の物理は解釈不可能であると考えています。
つまり古典物理では相対性理論や量子力学的現象は解釈出来ないが、量子力学や相対性理論からは古典力学的物理は説明出来ることと同じです。
従って私は科学を過小評価しているのではなく、現行科学はより高次元の世界の科学体系に包括されていると考えているということです。
そして下位次元の科学ではより上位の次元の物理に基づく事象は解釈できないと考えます。
これがいわゆる飛躍の実体ですが、もし本当に異次元“世界”が存在するのであればこれは至極当然の論理的帰結です。
ただしそれを霊界と直結すること自体には“自然”科学的根拠はありません。
しかし同時に何度も論証しているようにその仮定を否定することは科学的には出来ず、またいかなる科学理論を否定するものでも大幅な修正を加えるものでもないので科学的矛盾も存在しません。
従っていかなる科学分野の定説や理論からも“飛躍”している訳ではありません。
つまり飛躍と言うべき科学的根拠はなく、単なる受取手の相対的主観の問題と言うことになります。
科学は先に理論あるいは仮定・仮説(論文の“新奇性”なども一種の新たな理論・仮説ではないでしょうか)次にその仮説を確かめるための実験ということの繰り返しであり、実験で実証されない説は未だ仮説である。というだけのことです。
俗に実験科学を専門としている方々は理論“科学者”に対して自らを実験“屋”と称し、理論学者を現場を知らない夢想家だと思っているようです。
この関係は会社組織の中でも経営・営業側と工場・現場組の間でも良く聞く話です。
日本人は本質的に職人気質なんですね。
とにかく細部にこだわるので製品のクオリティーが高まります。
日本製の文房具や家電製品などは海外のものに比べると“とてつもなく”使いやすく、バラエティーに富み“COOL!”なんだそうですよ。
閑話休題。
上記の用語の中で厳に戒むべきは人身攻撃、権威主義、多数決主義(みんな言ってる的な思考停止)ですね。
権威主義は事例や根拠の信憑性のために少なくともオカルトからのものではないことを示すため、否定派に対して意識的に“使わざるを得ない”という事情背景もありますが、それでも専門家の一人がそう言っていたからと言ってその意見をだけで事実とする根拠にはなりえないことは十分過ぎるほど理解しています。
帰納法はいわゆる実験科学が日々取り組んでいる、一定の条件で同じ手続きを踏めば何度やっても同じ結果が再現されることで実証する作業でしょう。
私はこの分野が基本的には主観によって成り立っていて自然科学的実証方法が有効に機能しないため「出来る限り多くのかつ信用出来きる事例を集めて一つの結論に至る」という意味で使います。
演繹法はある一つの仮定に基づき考察すると、多くの事例や事象を合理的に説明できることを示してその仮説が正しいことをしめす方法だと考えます。
しかしこの方法では現時点ではオカルトというカテゴリーにあたる概念からスタートすることになり、とても科学的合理主義によって理解したいという方には副作用が強すぎて使えません。
反証主義はそれを備えた仮説の方がより科学的であり、その主張を強固なものにすることは全くそのとおりだと思いますが、しかしそれを備えなければ科学ではないということは論理的に既に破綻しているようです。
また、これは唯物論の延長の思想であり、また私の仮説にはまったく適用出来ません。
少なくとも理論科学の段階ではそもそも反証テストどころか実証テストも出来ないのでこの反証可能性は実験科学の段階に至った仮説にしか適用出来ないということです。
おっしゃるとおり科学は基本的には目に見え、触れられる物質的なものを対象とするために構築された技術であり、目に見えず、触れられないものを直接的に対象とするには向いていません。
しかしそれは科学技術的観測に不向きという意味であって、単に“科学的である”ためには論理的思考過程さえ適切に使えれば理論科学のように紙と鉛筆と頭脳でも成り立つものです。
いやホーキング博士のように紙や鉛筆すら必要ない科学者もいます。
しかし、所詮言葉は人間が作り出したものである以上完璧でもなければ絶対的なものでもなく、その意味では(自然)科学的なものではありません。
意味論は一つの学問になっているぐらいなので、言葉は未だそしておそらく永遠に未完成な道具です。
そう言ってしまうと話はお終いなので、そんな物なんだということを分かった上で、せめて重要なキーワードに関しては、その違いを出来る限り最小値に納めることは議論を進めるためには非常に有効です。
それでも実際には背景となる個人的主観はどうしても反映されてしまいます。
例えば私の「仮説」という言葉も理論科学では科学の範疇でも実験科学では科学ではないというのがharesora38さんのお考えですが、理論科学と実験科学は共に科学の双璧であり、(最近はこの二つにシミュレーション:仮想実験を中心とする計算科学という両者の折衷の様な科学様式が成立したと言われているようですが)どちらの科学においても仮説そのものは「科学」です。
ただ前者が事実の裏付けが“後”で行う(正確にはその時点では実験が不可能なので行えない)ことになるのに対して、後者が事実確認を“先”に行っている(行うことが出来る)というだけのことであり、最先端科学、特に物理学においては始めに理論科学でモデルを想定し、そのモデルに基づき実験科学がその理論の実証をするというパターンの繰り返しです。
従ってharesoraさんの主観では理論科学での仮説は科学ではないと思われていても、科学界での通念では理論科学の仮説も科学的論理性によって、ある事象を“より”上手に、そして現行科学を否定したり大幅な修正などを加えずに、それ以前の科学体系とも整合性を保ったまま包括的に説明できれば科学的なものとして認められます。
特に仮説を立てる意味は“従来の定説では説明出来ない事象を合理的に(美しく)かつ従来の定説と矛盾なく”説明出来ることにあります。
それがまさに相対性理論であり、ニュートン力学的古典物理は新しい理論においては“誤り”ではなく真実のいわば“近似値”であったとして新しい理論に包括させて説明されています。
例えば私の仮説では余剰次元というものを前提としてこの世界及びこの世界で成り立つ科学体系は、この次元を内包するより上位の次元の物理に包括されるが、下位の次元での科学では上位の次元の物理は解釈不可能であると考えています。
つまり古典物理では相対性理論や量子力学的現象は解釈出来ないが、量子力学や相対性理論からは古典力学的物理は説明出来ることと同じです。
従って私は科学を過小評価しているのではなく、現行科学はより高次元の世界の科学体系に包括されていると考えているということです。
そして下位次元の科学ではより上位の次元の物理に基づく事象は解釈できないと考えます。
これがいわゆる飛躍の実体ですが、もし本当に異次元“世界”が存在するのであればこれは至極当然の論理的帰結です。
ただしそれを霊界と直結すること自体には“自然”科学的根拠はありません。
しかし同時に何度も論証しているようにその仮定を否定することは科学的には出来ず、またいかなる科学理論を否定するものでも大幅な修正を加えるものでもないので科学的矛盾も存在しません。
従っていかなる科学分野の定説や理論からも“飛躍”している訳ではありません。
つまり飛躍と言うべき科学的根拠はなく、単なる受取手の相対的主観の問題と言うことになります。
科学は先に理論あるいは仮定・仮説(論文の“新奇性”なども一種の新たな理論・仮説ではないでしょうか)次にその仮説を確かめるための実験ということの繰り返しであり、実験で実証されない説は未だ仮説である。というだけのことです。
俗に実験科学を専門としている方々は理論“科学者”に対して自らを実験“屋”と称し、理論学者を現場を知らない夢想家だと思っているようです。
この関係は会社組織の中でも経営・営業側と工場・現場組の間でも良く聞く話です。
日本人は本質的に職人気質なんですね。
とにかく細部にこだわるので製品のクオリティーが高まります。
日本製の文房具や家電製品などは海外のものに比べると“とてつもなく”使いやすく、バラエティーに富み“COOL!”なんだそうですよ。
閑話休題。
上記の用語の中で厳に戒むべきは人身攻撃、権威主義、多数決主義(みんな言ってる的な思考停止)ですね。
権威主義は事例や根拠の信憑性のために少なくともオカルトからのものではないことを示すため、否定派に対して意識的に“使わざるを得ない”という事情背景もありますが、それでも専門家の一人がそう言っていたからと言ってその意見をだけで事実とする根拠にはなりえないことは十分過ぎるほど理解しています。
帰納法はいわゆる実験科学が日々取り組んでいる、一定の条件で同じ手続きを踏めば何度やっても同じ結果が再現されることで実証する作業でしょう。
私はこの分野が基本的には主観によって成り立っていて自然科学的実証方法が有効に機能しないため「出来る限り多くのかつ信用出来きる事例を集めて一つの結論に至る」という意味で使います。
演繹法はある一つの仮定に基づき考察すると、多くの事例や事象を合理的に説明できることを示してその仮説が正しいことをしめす方法だと考えます。
しかしこの方法では現時点ではオカルトというカテゴリーにあたる概念からスタートすることになり、とても科学的合理主義によって理解したいという方には副作用が強すぎて使えません。
反証主義はそれを備えた仮説の方がより科学的であり、その主張を強固なものにすることは全くそのとおりだと思いますが、しかしそれを備えなければ科学ではないということは論理的に既に破綻しているようです。
また、これは唯物論の延長の思想であり、また私の仮説にはまったく適用出来ません。
少なくとも理論科学の段階ではそもそも反証テストどころか実証テストも出来ないのでこの反証可能性は実験科学の段階に至った仮説にしか適用出来ないということです。
おっしゃるとおり科学は基本的には目に見え、触れられる物質的なものを対象とするために構築された技術であり、目に見えず、触れられないものを直接的に対象とするには向いていません。
しかしそれは科学技術的観測に不向きという意味であって、単に“科学的である”ためには論理的思考過程さえ適切に使えれば理論科学のように紙と鉛筆と頭脳でも成り立つものです。
いやホーキング博士のように紙や鉛筆すら必要ない科学者もいます。
Re:用語の摺り合わせは大切ですね
むしろ理論物理学的な命題なら「科学」と言えますが、cecilさんの仮説は科学と言えない(科学というには早すぎる)、もっとはっきり言うのならば「cecilさんの仮説は理論物理学的な命題ではない」と考えています。
いや、科学でも良いんですけど、cecilさんのおっしゃるとおり言葉というのは大事ですが形式だけであっては意味がないですよね。だから今回言っていることは科学の枠に入っていようがいまいが実はあまり大きな意味を持ちません。
科学だろうが科学でなかろうが「cecilさんの仮説の内容」には疑問を呈していたと思います。
主張のラベルがなんであるかはさほど重要ではありません。
ただしそこが重要であると考えてそこを重点的に聞いたのは私です。そして違うことがわかりましたね。
cecilさんの仮説(主張)の違和感は先ほどコメントでも示しましたが、cecilさんの仮説は前提として余剰次元があったと「仮定」し(これは観測結果などからも可能性は高いと考えられていますね)、その余剰次元が三次元世界を覆うように、三次元世界を内包する形で存在すると「仮定」し、霊がその余剰次元に存在すると「仮定」した場合において成り立ちます。
そして、前二つの「仮定」が真であったとしても最後の「仮定」が成り立つとは限りません。
これはこの用語のなかでいえば「帰納法」でありもっと言えば「アブダクション」だと考えられます。帰納的でいけないわけではありません。仮説は個別の事象から一般則を見出すために立てられることが多いですね。
では、この仮説は「何が証明されれば」あるいは「どんな方法を用いれば」証明できるのでしょうか。私が「cecilさんの仮説は理論物理学的な命題ではない」と考えているのは実はそこがわからないからです。
私が「理解した」理論物理学の命題には現在証明されているものからされていないものも全部含めて「何が」確認されれば証明できるというものがあります。しかしcecilさんの仮説にはそれはありません。あるようには見えますが。
>俗に実験科学を専門としている方々は理論“科学者”に対して自らを実験“屋”と称し、理論学者を現場を知らない夢想家だと思っているようです。
そういう人もいるんですね。
私は理論だけで食べていけるほど頭のいい人たちはすごいなぁと思っています。確かに私は理論学者についてあまり知りません。でも夢想家だと思ったことはないし、これからも思うことはないでしょう。
ある人に当てはまるからといって別の人に当てはまるとは限りません。
>反証主義
見てお分かりかと思いますが、ちゃんとまとめきれていません。
そして私見はcecilさんと同じ意見だと考えます。
そして「反証可能性がないからそれは認められない」ということは言いません(一時期はないとダメだと思っていました)。
いや、科学でも良いんですけど、cecilさんのおっしゃるとおり言葉というのは大事ですが形式だけであっては意味がないですよね。だから今回言っていることは科学の枠に入っていようがいまいが実はあまり大きな意味を持ちません。
科学だろうが科学でなかろうが「cecilさんの仮説の内容」には疑問を呈していたと思います。
主張のラベルがなんであるかはさほど重要ではありません。
ただしそこが重要であると考えてそこを重点的に聞いたのは私です。そして違うことがわかりましたね。
cecilさんの仮説(主張)の違和感は先ほどコメントでも示しましたが、cecilさんの仮説は前提として余剰次元があったと「仮定」し(これは観測結果などからも可能性は高いと考えられていますね)、その余剰次元が三次元世界を覆うように、三次元世界を内包する形で存在すると「仮定」し、霊がその余剰次元に存在すると「仮定」した場合において成り立ちます。
そして、前二つの「仮定」が真であったとしても最後の「仮定」が成り立つとは限りません。
これはこの用語のなかでいえば「帰納法」でありもっと言えば「アブダクション」だと考えられます。帰納的でいけないわけではありません。仮説は個別の事象から一般則を見出すために立てられることが多いですね。
では、この仮説は「何が証明されれば」あるいは「どんな方法を用いれば」証明できるのでしょうか。私が「cecilさんの仮説は理論物理学的な命題ではない」と考えているのは実はそこがわからないからです。
私が「理解した」理論物理学の命題には現在証明されているものからされていないものも全部含めて「何が」確認されれば証明できるというものがあります。しかしcecilさんの仮説にはそれはありません。あるようには見えますが。
>俗に実験科学を専門としている方々は理論“科学者”に対して自らを実験“屋”と称し、理論学者を現場を知らない夢想家だと思っているようです。
そういう人もいるんですね。
私は理論だけで食べていけるほど頭のいい人たちはすごいなぁと思っています。確かに私は理論学者についてあまり知りません。でも夢想家だと思ったことはないし、これからも思うことはないでしょう。
ある人に当てはまるからといって別の人に当てはまるとは限りません。
>反証主義
見てお分かりかと思いますが、ちゃんとまとめきれていません。
そして私見はcecilさんと同じ意見だと考えます。
そして「反証可能性がないからそれは認められない」ということは言いません(一時期はないとダメだと思っていました)。
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