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議論の場所としてブログは結構適していると思います。
私の印象↓
ブログ:ブログ主が良識の持ち主なら恣意的なコメントの公開の仕方もしないし、コメンターに対して返事もしてくれる。ただし往々にしてブログ主対コメンター達(1対複数)になりがちである。
普通、出てしまったコメントはブログ主の承認なしでは消せないし修正できない。その点が非常にいい。
あと、ブログの方向性によってはある一定の層が集まってくるのでコメントの質が保証できる場合もある。
掲示板:議論において1対1(というより複数対複数)を維持できるわりといい環境。ただし掲示板が落ちたり、議論してた人たちがいなくなったり(特に匿名掲示板)したり、議論の質が保てなかったりする。
管理人がいる掲示板だったらその点もある程度カバーできるか。
実はYahoo!掲示板で議論をしようかとも考えたが適当な板が凍結(新スレ立て禁止)だったのでできなかった。
教えてgoo!:Yahoo!知恵袋みたいなQ&Aサイト。
同じ質問に何回でも回答できる。ただし回答の修正はできない。(消せたかな?どうだっけ?)
ある程度は議論できる。すごく専門的。オカルト関係はほとんどみない(というか議論が発展しない)気がする。
専門家が多いのであまり議論を見たことがない。というか質問もかなり専門的。
Yahoo!知恵袋:結構くだらない質問が多いQ&Aサイト。そんなところが愛おしい。
質問に対する回答は2000文字まで。追記は何回もできるし回答の修正もできる。おかげで議論はほとんどできない。そもそも議論や批判が嫌いな(食わず嫌い的拒否反応)人が多い。
でも専門知識を持っている人もたくさんいる。
教えてgoo!よりも回答の幅がピンからキリまでという感じがする。(良い意味でも悪い意味でも)
議論をするなら
管理人のいる掲示板>ブログ>>掲示板≧教えてgoo!>>>>Yahoo!知恵袋
それでもなんで知恵袋でしたいなぁと考えたかというと
11月20日追記:
知恵袋の記述は最高2000字までしか行えません。
2000字ってけっこうありますが、議論するには全然足りません。
残念なことに議論のログは「リアルタイムで見ている」か「当事者」でない限り見ることはできません。
それでは議論としての価値は半分です。人間の営みでずば抜けて優れているところは「自分が体験していないことも追体験できる」ことです。ログが残っていることで無駄な議論が減ります。その究極の形が学問であると考えます。
私の印象↓
ブログ:ブログ主が良識の持ち主なら恣意的なコメントの公開の仕方もしないし、コメンターに対して返事もしてくれる。ただし往々にしてブログ主対コメンター達(1対複数)になりがちである。
普通、出てしまったコメントはブログ主の承認なしでは消せないし修正できない。その点が非常にいい。
あと、ブログの方向性によってはある一定の層が集まってくるのでコメントの質が保証できる場合もある。
掲示板:議論において1対1(というより複数対複数)を維持できるわりといい環境。ただし掲示板が落ちたり、議論してた人たちがいなくなったり(特に匿名掲示板)したり、議論の質が保てなかったりする。
管理人がいる掲示板だったらその点もある程度カバーできるか。
実はYahoo!掲示板で議論をしようかとも考えたが適当な板が凍結(新スレ立て禁止)だったのでできなかった。
教えてgoo!:Yahoo!知恵袋みたいなQ&Aサイト。
同じ質問に何回でも回答できる。ただし回答の修正はできない。(消せたかな?どうだっけ?)
ある程度は議論できる。すごく専門的。オカルト関係はほとんどみない(というか議論が発展しない)気がする。
専門家が多いのであまり議論を見たことがない。というか質問もかなり専門的。
Yahoo!知恵袋:結構くだらない質問が多いQ&Aサイト。そんなところが愛おしい。
質問に対する回答は2000文字まで。追記は何回もできるし回答の修正もできる。おかげで議論はほとんどできない。そもそも議論や批判が嫌いな(食わず嫌い的拒否反応)人が多い。
でも専門知識を持っている人もたくさんいる。
教えてgoo!よりも回答の幅がピンからキリまでという感じがする。(良い意味でも悪い意味でも)
議論をするなら
管理人のいる掲示板>ブログ>>掲示板≧教えてgoo!>>>>Yahoo!知恵袋
それでもなんで知恵袋でしたいなぁと考えたかというと
だから「見せても理解してもらえないだろう」と思い始めたときに知恵袋は無理だなぁと思った。・ブログよりも閲覧者の思想でフィルタがかからないから(いろんな人が見る)
・もともと「見せる」書き方、理解してもらえるよう回答をしてるから(たいていは…ね)
11月20日追記:
知恵袋の記述は最高2000字までしか行えません。
2000字ってけっこうありますが、議論するには全然足りません。
残念なことに議論のログは「リアルタイムで見ている」か「当事者」でない限り見ることはできません。
それでは議論としての価値は半分です。人間の営みでずば抜けて優れているところは「自分が体験していないことも追体験できる」ことです。ログが残っていることで無駄な議論が減ります。その究極の形が学問であると考えます。
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調べ物をしながら今一度用語の確認。
すべてWikipediaから引用。ほとんどいじってないから転載というのが正しいかもしれない。
あとでリンクと個別に要約し直す予定。リンクしました。
ちなみに書いておきますが私がこれらの語を調べるために参照したのはWikipediaだけではありません。また、これらのリンク先の言及がいつでも正しいとは限りません。とりあえず現時点(2008.11.19)では内容に問題がないわけではないが検証可能性の観点から問題ない記事であることを書いておきます。
理論物理学:
理論的なモデルや数式を元に、既知の実験事実を説明したり、未知の物質などを予言したりする演繹的なアプローチを行う方法論。
実験物理学:
実験や観測を通して自然現象・物理現象を理解しようとする物理学の研究方法のひとつ。
宇宙物理学におけるようなコントロール不能な現象に対して、観測手段を工夫することによって特徴的な振る舞いを抽出しようとする試みも実験物理学の範疇に含めるのが普通である。
実証主義:
(科学哲学)実証主義は「一般法則は観察と論理によって“のみ”正当化される」と主張する。主に帰納法がとられていた。
注意。ただし仮説でなく実験を行った場合、実験による観察から得られた見解をそれよりも広い条件範囲に適用する行為は、科学哲学以前に、科学として実証とは認められない。
反証主義:
(私見)科学の領域に入ってくるものに使うべきものであり、非科学を積極的に排除するために使うべきではない。
「信頼性が高い仮説よりも低い仮説をあえて信じることは不合理であるかもしれないが、しかし、それは反証主義の批判対象ではないはずである。」
アドホックな仮説:
ある理論が反証されたときにその反証を否定するためにその理論に後から付けられる補助仮説のことである。
(私見)実際にその仮説が立証されれば理論の補助となるのだから排除すべきではない。ただし理論は補助仮説も含めて仮説として語られるべきだと感じる。
帰納法:
個別的・特殊的な事例から一般的・普遍的な規則を見出そうとする推論方法。
前提が真であるからといって結論が真であるとは限らない。
アブダクション:
ある個別の事象を最も適切に説明しうる仮説を導き出す推論
演繹法:
一般的・普遍的な前提からより個別的・特殊的な結論を得る推論方法。
前提が真であるならば結論も真である。よって前提が間違っていれば必然的に誤った結論が導き出される。
(コメント)帰納法と演繹法の違いは帰納法の項目を参照する方がわかりやすい。
人身攻撃:
Aという人がXと主張する
Aについて何らかの疑惑/問題/いかがわしい点がある
したがって、Xという主張は偽である
・祈りが人工授精を行った女性の妊娠・着床率を上げたとした論文の報告も実験者が詐欺師だったからといって結果が偽であるとは限らない。ただ、もし本当に実験が行われており信頼のできる結果を得ていたのならFirst AuthorやCorresponding Authorは提示された疑問に返答する義務を有するはずで、返答・反駁ができないということは論文で提示した説を放棄したのだと見なされても仕方がないと考える。
http://transact.seesaa.net/article/28144610.html
権威に訴える論証:
Bという人がYと主張する
Bには何らかの(社会的・性格的に)ポジティブな面がある
したがって、Yという主張は真である
A、Bの双方に対して(社会的)立場と主張はまったく切り離して考えるべきものである。
(コメント)実はこういう論調は知恵袋でも結構見かける。
「企業の社員だから庇うんでしょうか?」「(主張を)正当化して私利私欲を得ようとしている」など。
私利私欲を~の方は質問者も回答者も情報が古すぎる。
二世代目の種が死滅するように遺伝子操作ができるなら画期的過ぎて特許を出してもいいしNatureやScienceに載るくらいすごい発見だろう。それができなくて研究している人が多いというのに。
参考:「体験談」信頼できる人からの話
http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20070919/p1
衆人に訴える論証:
多くの人が信じているという理由である命題を真であると論証結論付けること
・多くの人が合っていると感じているから正しいとは限らない。反対に、少数の人しか信じていないから間違っているとも限らない。
たとえば血液型性格判断。
権威に訴える論証(=専門家)⇔衆人に訴える論証(=一般大衆)
そうなんだよね。これらすべてのことは形而上学のことで、科学は基本的に形而下のものを扱ってるからよくわかんないのかもしれない。
11月19日追記:当然書くべきものを忘れていた。
科学:
・ (広義)体系化された知識や経験の総称であり、自然科学、人文科学、社会科学の総称。
・(狭義)科学的方法に基づく学術的な知識、学問。
・(最狭義)自然科学。
science という語は、17世紀の科学革命のころまでは、体系化された知識や経験の総称という意味で用いられてきた。
世の中に見られる現象は、一見不思議なことは数多い。これがなぜかを知りたくなるのであるが、直接にそれを誰かに尋ねることで答えを得るのは難しい。
それに対して、こうすればこうなる、といった事象を集めることから、原因と結果を探してゆくのが科学的方法である。言いかえれば、究極的な目的であるなぜ(Why)を一端棚上げにして、まずいかなる状態で、どのような(How)現象が起きているのかを記述するとこと、どのような条件下で何が起きるかを記録し、それに基づいて因果関係を分析しようとするのが科学である。
(コメント)私が普段意識せずに「科学」を用いている場合は(狭義)の意味で使っている。
ただし人文科学や社会科学の知見も「科学的」として取り入れるのであり、得てしてそういうものは「科学的方法に基づく知識」だったりするのでなぜか上位の概念を孕んだ意味で使っている。うーん、なぜだろう。
未科学(プロトサイエンス):
まだ科学とは呼べないが科学的な方法を用いて研究が行われつつある新しい分野に対して使われる。
意味を端的にいえば「未実証の仮説」である。
未科学の主張を「正しいもの」「確定したもの」とすることはプロトサイエンスの自己定義に反する。
(コメント)この項目は「疑似科学」「未科学」「科学」の違いを図にしてくれているので本当にわかりやすい。
数年前からこの図が区別のための大まかな目安となっている。もちろん見分け難いものもある。
疑似科学:
学問、学説、理論、知識、研究等のうち、その主唱者や研究者が科学であると主張したり科学であるように見せかけたりし ていながら、現時点(As of Today)での知見において科学の要件として広く認められている条件(科学的方法)を十分に満たしていないものを言う。
(私見)正直、疑似科学とニセ科学の違いがわからない。
私はオカルトだろうが宗教だろうが科学のフリをしていてそれが現在の知見と照らし合わせて間違っていたら容赦なく指摘する。たぶん科学のフリが重要なキーワード。
それがなければ私はオカルトや宗教に寛容な部類に入ると思う。
というか疑似科学問題はみんな注目してるからなのか知らないが記事がごちゃごちゃしすぎる。
たくさんあるわりにわかりにくいというか。でも直すほどの技量もないので放置。
(未科学より)
新理論が非常に目新しく、現在の実験結果や事実がその新理論に矛盾もしていないが、主に技術的理由でさらなる評価が困難である、といった場合には、疑似科学とプロトサイエンスとの区別はさらに困難になる。あらゆる学問分野の中でも、物理学や医学の先端分野ではこのような傾向が顕著に見られる。
(私見)これは難しい。本当に難しい。でも、私は「活発な議論が行われない分野は発展しない」と考えている。今のオカルトなんかまさにそうだ。科学はときに正しかったり間違えたりしながら、それでもどんどん正しい方に近づいていく、そういう学問だと考える。
Wikipediaの利点は一つの情報の信頼性がわからなくても情報がつながっているので全体像を把握しやすいところにある。調べ物の終点ではなくて始点として利用すればこれほど使いやすいものはない。
理論物理学者:
自然界の物質・現象そのものを扱うのではなく,それらの振る舞いをあらわすモデルついて研究する物理学者。これらのモデルはほとんどの場合数式を 用いて表現され、理論物理学者はこのモデルをさまざまな数学的手法によって、モデルの振る舞いを検討し,なんらかの物理現象の予測をし,実験事実と突き合 わせ,モデルの妥当性を考察する。
M理論:11次元
超弦理論(超ひも理論):5つ(I型、IIA、IIB、ヘテロSO(32),ヘテロE8×E8)
調べれば調べるほど物理学の泥沼にハマっていきそう。
物理学が理論物理学と実験物理学に分かれてしまった理由がわかる。これは一朝一夕どころか大学4年間で学ぼうとするとかなり大変。
すべてWikipediaから引用。ほとんどいじってないから転載というのが正しいかもしれない。
ちなみに書いておきますが私がこれらの語を調べるために参照したのはWikipediaだけではありません。また、これらのリンク先の言及がいつでも正しいとは限りません。とりあえず現時点(2008.11.19)では内容に問題がないわけではないが検証可能性の観点から問題ない記事であることを書いておきます。
理論物理学:
理論的なモデルや数式を元に、既知の実験事実を説明したり、未知の物質などを予言したりする演繹的なアプローチを行う方法論。
実験物理学:
実験や観測を通して自然現象・物理現象を理解しようとする物理学の研究方法のひとつ。
宇宙物理学におけるようなコントロール不能な現象に対して、観測手段を工夫することによって特徴的な振る舞いを抽出しようとする試みも実験物理学の範疇に含めるのが普通である。
実証主義:
(科学哲学)実証主義は「一般法則は観察と論理によって“のみ”正当化される」と主張する。主に帰納法がとられていた。
注意。ただし仮説でなく実験を行った場合、実験による観察から得られた見解をそれよりも広い条件範囲に適用する行為は、科学哲学以前に、科学として実証とは認められない。
反証主義:
(私見)科学の領域に入ってくるものに使うべきものであり、非科学を積極的に排除するために使うべきではない。
「信頼性が高い仮説よりも低い仮説をあえて信じることは不合理であるかもしれないが、しかし、それは反証主義の批判対象ではないはずである。」
アドホックな仮説:
ある理論が反証されたときにその反証を否定するためにその理論に後から付けられる補助仮説のことである。
(私見)実際にその仮説が立証されれば理論の補助となるのだから排除すべきではない。ただし理論は補助仮説も含めて仮説として語られるべきだと感じる。
帰納法:
個別的・特殊的な事例から一般的・普遍的な規則を見出そうとする推論方法。
前提が真であるからといって結論が真であるとは限らない。
アブダクション:
ある個別の事象を最も適切に説明しうる仮説を導き出す推論
演繹法:
一般的・普遍的な前提からより個別的・特殊的な結論を得る推論方法。
前提が真であるならば結論も真である。よって前提が間違っていれば必然的に誤った結論が導き出される。
(コメント)帰納法と演繹法の違いは帰納法の項目を参照する方がわかりやすい。
人身攻撃:
Aという人がXと主張する
Aについて何らかの疑惑/問題/いかがわしい点がある
したがって、Xという主張は偽である
・祈りが人工授精を行った女性の妊娠・着床率を上げたとした論文の報告も実験者が詐欺師だったからといって結果が偽であるとは限らない。ただ、もし本当に実験が行われており信頼のできる結果を得ていたのならFirst AuthorやCorresponding Authorは提示された疑問に返答する義務を有するはずで、返答・反駁ができないということは論文で提示した説を放棄したのだと見なされても仕方がないと考える。
http://transact.seesaa.net/article/28144610.html
権威に訴える論証:
Bという人がYと主張する
Bには何らかの(社会的・性格的に)ポジティブな面がある
したがって、Yという主張は真である
A、Bの双方に対して(社会的)立場と主張はまったく切り離して考えるべきものである。
(コメント)実はこういう論調は知恵袋でも結構見かける。
「企業の社員だから庇うんでしょうか?」「(主張を)正当化して私利私欲を得ようとしている」など。
私利私欲を~の方は質問者も回答者も情報が古すぎる。
二世代目の種が死滅するように遺伝子操作ができるなら画期的過ぎて特許を出してもいいしNatureやScienceに載るくらいすごい発見だろう。それができなくて研究している人が多いというのに。
参考:「体験談」信頼できる人からの話
http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20070919/p1
衆人に訴える論証:
多くの人が信じているという理由である命題を真であると論証結論付けること
・多くの人が合っていると感じているから正しいとは限らない。反対に、少数の人しか信じていないから間違っているとも限らない。
たとえば血液型性格判断。
権威に訴える論証(=専門家)⇔衆人に訴える論証(=一般大衆)
そうなんだよね。これらすべてのことは形而上学のことで、科学は基本的に形而下のものを扱ってるからよくわかんないのかもしれない。
11月19日追記:当然書くべきものを忘れていた。
科学:
・ (広義)体系化された知識や経験の総称であり、自然科学、人文科学、社会科学の総称。
・(狭義)科学的方法に基づく学術的な知識、学問。
・(最狭義)自然科学。
science という語は、17世紀の科学革命のころまでは、体系化された知識や経験の総称という意味で用いられてきた。
世の中に見られる現象は、一見不思議なことは数多い。これがなぜかを知りたくなるのであるが、直接にそれを誰かに尋ねることで答えを得るのは難しい。
それに対して、こうすればこうなる、といった事象を集めることから、原因と結果を探してゆくのが科学的方法である。言いかえれば、究極的な目的であるなぜ(Why)を一端棚上げにして、まずいかなる状態で、どのような(How)現象が起きているのかを記述するとこと、どのような条件下で何が起きるかを記録し、それに基づいて因果関係を分析しようとするのが科学である。
(コメント)私が普段意識せずに「科学」を用いている場合は(狭義)の意味で使っている。
ただし人文科学や社会科学の知見も「科学的」として取り入れるのであり、得てしてそういうものは「科学的方法に基づく知識」だったりするのでなぜか上位の概念を孕んだ意味で使っている。うーん、なぜだろう。
未科学(プロトサイエンス):
まだ科学とは呼べないが科学的な方法を用いて研究が行われつつある新しい分野に対して使われる。
意味を端的にいえば「未実証の仮説」である。
未科学の主張を「正しいもの」「確定したもの」とすることはプロトサイエンスの自己定義に反する。
(コメント)この項目は「疑似科学」「未科学」「科学」の違いを図にしてくれているので本当にわかりやすい。
数年前からこの図が区別のための大まかな目安となっている。もちろん見分け難いものもある。
疑似科学:
学問、学説、理論、知識、研究等のうち、その主唱者や研究者が科学であると主張したり科学であるように見せかけたりし ていながら、現時点(As of Today)での知見において科学の要件として広く認められている条件(科学的方法)を十分に満たしていないものを言う。
(私見)正直、疑似科学とニセ科学の違いがわからない。
私はオカルトだろうが宗教だろうが科学のフリをしていてそれが現在の知見と照らし合わせて間違っていたら容赦なく指摘する。たぶん科学のフリが重要なキーワード。
それがなければ私はオカルトや宗教に寛容な部類に入ると思う。
というか疑似科学問題はみんな注目してるからなのか知らないが記事がごちゃごちゃしすぎる。
たくさんあるわりにわかりにくいというか。でも直すほどの技量もないので放置。
(未科学より)
新理論が非常に目新しく、現在の実験結果や事実がその新理論に矛盾もしていないが、主に技術的理由でさらなる評価が困難である、といった場合には、疑似科学とプロトサイエンスとの区別はさらに困難になる。あらゆる学問分野の中でも、物理学や医学の先端分野ではこのような傾向が顕著に見られる。
(私見)これは難しい。本当に難しい。でも、私は「活発な議論が行われない分野は発展しない」と考えている。今のオカルトなんかまさにそうだ。科学はときに正しかったり間違えたりしながら、それでもどんどん正しい方に近づいていく、そういう学問だと考える。
Wikipediaの利点は一つの情報の信頼性がわからなくても情報がつながっているので全体像を把握しやすいところにある。調べ物の終点ではなくて始点として利用すればこれほど使いやすいものはない。
理論物理学者:
自然界の物質・現象そのものを扱うのではなく,それらの振る舞いをあらわすモデルついて研究する物理学者。これらのモデルはほとんどの場合数式を 用いて表現され、理論物理学者はこのモデルをさまざまな数学的手法によって、モデルの振る舞いを検討し,なんらかの物理現象の予測をし,実験事実と突き合 わせ,モデルの妥当性を考察する。
M理論:11次元
超弦理論(超ひも理論):5つ(I型、IIA、IIB、ヘテロSO(32),ヘテロE8×E8)
調べれば調べるほど物理学の泥沼にハマっていきそう。
物理学が理論物理学と実験物理学に分かれてしまった理由がわかる。これは一朝一夕どころか大学4年間で学ぼうとするとかなり大変。
書きかけですが補足として少し書いておきます。
みなさま回答ありがとうございます。
おそらく、私の批判の仕方は「回答の仕方(書き方)批判」になると考えています。つまり、内容には踏み込んでいない場合がほとんどです。
「個人的に」証明されたものと解明中のもの、科学的仮説と科学的でない仮説を分けるべきだという信念を持っていて、すべてが一緒のレベルで語られることに違和感があるのです。
私自身は非科学を許容できないわけではまったくなく、考え方は否定派よりもcecilさんに近いと思っています。
cecilさんはせっかく素晴らしい知識をお持ちなのだから短絡的な否定派には構わずに書いてほしいのです。
私も(広義では)否定派なので一緒くたに批判されても困るし、そもそもcecilさんが私を含めた懐疑的否定派のことを指して言っていると考えているわけでも科学を使えないと言いたいだろうと思っているわけでもありません。それは対話をしてきた私が十分理解しています。ただ「そのように読める」のです。とても上手く書かれているから気付かないけど対象を特定しない批判は(ギャラリーに対して)効果的ですがとても無意味です。それならしない方がいい、とさえ思っています。
肯定派が相手にすべきは科学は絶対と思っている少数派ではなく科学の適用範囲を理解している多数の懐疑派・否定派ではないでしょうか。
私は「超常現象カテ」や「血液型性格判断」の質問においてよく名指しで批判をします。
これが忌避されていることはわかっています。批判をするとほとんどの場合BAにはならないし通常の回答の3倍は疲れます。
「批判してる人はリアルで何も言えないからネットで憂さ晴らしをしている」とか「否定派はなんで必死なの?」とか的外れな指摘に耐えながらも、それでも批判相手をぼかすことによる「伝わらなさ」を回避するためならこれからもすると思います。
率直に誤解を恐れずに言うと、私にはcecilさんの回答が「霊は異次元の存在だから3次元の科学では解明できない。以上。その上で霊というのは~」という風に見えるのですね。
一見つながっているように見えてつながっていない。たぶんそこに一種の気持ち悪さを感じています。
異次元の根拠として出すRS理論も証明される可能性が高いとは言えません。魅力的ではあるけれども可能性は低いというのが一般的な理解ですよね。
cecilさんの挙げられている研究のほとんどは「過程」であってまだ証明されたものではありません。cecilさんもそのへんは理解されていると思うのですが、文脈からはそうは読めません。そして私はその文脈こそ問題にしています。
たとえばそれがこの一言に凝縮されていたりします。
>わかりやすさのためには正確さを犠牲にしてもいいでしょうか。
私の意見を書きます。
わかりやすさと正確さは対立しません。
科学というのは「絶対」がないので言い切ることができません。分野によってはとても歯切れの悪い言い方しかできません。
だからどちらか一方を犠牲にしなければいけないなら「わかりやすさ」を選ぶと思います。
もちろん科学を使わない場合にもこの考え方を適用しなければいけないと言っているわけではありません。
なんか書きたいこととはまだ違う気がするんですが上手く説明できません。
また、名前を省略してしまってすみません。
追記:上記の文章は11月1日および11月3日のcecil_scott_foresterさんのコメントを読まずに書いているので少し(ではなく)ずれたことを言っている可能性があります。
私の中には「霊が存在するとしたらどのような可能性があるか」といった具体的な理論はありません。
正確にいうなら、99.99%ぐらいは錯覚や幻覚などであると思っていますがそれすらもクリアする0.01%はあると思っています。しかし実際に0.01%に値する現象があったとして「どのような説明をしたら合理的であるか」というのは考えたことがありません。いえ、むしろそういう理論を知るために知恵袋にいます。(もちろん他のブログやら掲示板やらも見ます)
その一つがcecil_scott_foresterさんの提示される理論です。
私はこの理論は魅力的だと思います。そして「現行の科学と矛盾していない」ように見えます。でもやはり矛盾までいかなくても「飛躍」があるように感じるのです。それについては説明してもらいました。
今まで、私は問題があるとしたら「土台の部分」だと思っていました。ある意味それは正しかったわけですが、これからは「メタ」な議論はやめてもう少し具体的な話をしたいと思います。
定義を決めていなかったのは「メタな議論だったから」と考えているのですが、メタな議論はすれ違うととことんすれ違ってしまうのが欠点です。
>「超常現象の解明に科学を使うことが不適である」
というのは確かに私の印象であり、cecil_scott_foresterさんの書き方が「科学」と「そうでない部分」の区分が曖昧に見えるのも私の個人的な印象です。
そしてcecil_scott_foresterさんによれば私から見て「そうでない部分」も「科学的主張の範囲である」ということでした。もっと正確にいうなら
>実験科学と理論科学では仮説の扱い方が違う
ことからcecil_scott_foresterさんにとっては「科学的な仮説」でも私にとっては「科学的ではない仮説」になってしまうんでしたね。
ここまでお付き合いしていただいてようやくわかったのですからこの溝は大きかったわけですね。
ここからは当初の予定からお待たせしてしまったとおり内容について少し具体的に踏み込みたいと思います。
余談:ところで、私が極めて実証性の高い分野(バイオテクノロジー)にいることは理論物理学が理解できないことの理由にはなりません。これは私の勉強不足と絶対的な知識量の差ですね。議論する上で必要な知識を付け焼刃で整えても仕方ないのは理解しているんですが出来る限りは努力します。
肯定派だろうと否定派だろうと懐疑派だろうと尊敬できる人はいますね。私の場合はそういう人が懐疑派に極めて多いというただそれだけの話です。唯一困っていることは「肯定派は純粋」「否定派は頑固」「懐疑派は皮肉屋」というステレオタイプが私の中で形成されていることです(苦笑)
追記:もたもたしてたら質問の補足もBA決定もできませんでした。すみません。
書きたいことは丁寧でなくともサッサと書いてしまった方がいいかもしれませんね。ちょっと忘れつつあります…。
本日(11月6日)は珍しく16時30分まで講義が入っているのでそのあとにお返事を作成します。
気長にお待ちいただけるとありがたいです。
みなさま回答ありがとうございます。
おそらく、私の批判の仕方は「回答の仕方(書き方)批判」になると考えています。つまり、内容には踏み込んでいない場合がほとんどです。
「個人的に」証明されたものと解明中のもの、科学的仮説と科学的でない仮説を分けるべきだという信念を持っていて、すべてが一緒のレベルで語られることに違和感があるのです。
私自身は非科学を許容できないわけではまったくなく、考え方は否定派よりもcecilさんに近いと思っています。
cecilさんはせっかく素晴らしい知識をお持ちなのだから短絡的な否定派には構わずに書いてほしいのです。
私も(広義では)否定派なので一緒くたに批判されても困るし、そもそもcecilさんが私を含めた懐疑的否定派のことを指して言っていると考えているわけでも科学を使えないと言いたいだろうと思っているわけでもありません。それは対話をしてきた私が十分理解しています。ただ「そのように読める」のです。とても上手く書かれているから気付かないけど対象を特定しない批判は(ギャラリーに対して)効果的ですがとても無意味です。それならしない方がいい、とさえ思っています。
肯定派が相手にすべきは科学は絶対と思っている少数派ではなく科学の適用範囲を理解している多数の懐疑派・否定派ではないでしょうか。
私は「超常現象カテ」や「血液型性格判断」の質問においてよく名指しで批判をします。
これが忌避されていることはわかっています。批判をするとほとんどの場合BAにはならないし通常の回答の3倍は疲れます。
「批判してる人はリアルで何も言えないからネットで憂さ晴らしをしている」とか「否定派はなんで必死なの?」とか的外れな指摘に耐えながらも、それでも批判相手をぼかすことによる「伝わらなさ」を回避するためならこれからもすると思います。
率直に誤解を恐れずに言うと、私にはcecilさんの回答が「霊は異次元の存在だから3次元の科学では解明できない。以上。その上で霊というのは~」という風に見えるのですね。
一見つながっているように見えてつながっていない。たぶんそこに一種の気持ち悪さを感じています。
異次元の根拠として出すRS理論も証明される可能性が高いとは言えません。魅力的ではあるけれども可能性は低いというのが一般的な理解ですよね。
cecilさんの挙げられている研究のほとんどは「過程」であってまだ証明されたものではありません。cecilさんもそのへんは理解されていると思うのですが、文脈からはそうは読めません。そして私はその文脈こそ問題にしています。
たとえばそれがこの一言に凝縮されていたりします。
>わかりやすさのためには正確さを犠牲にしてもいいでしょうか。
私の意見を書きます。
わかりやすさと正確さは対立しません。
科学というのは「絶対」がないので言い切ることができません。分野によってはとても歯切れの悪い言い方しかできません。
だからどちらか一方を犠牲にしなければいけないなら「わかりやすさ」を選ぶと思います。
もちろん科学を使わない場合にもこの考え方を適用しなければいけないと言っているわけではありません。
なんか書きたいこととはまだ違う気がするんですが上手く説明できません。
また、名前を省略してしまってすみません。
追記:上記の文章は11月1日および11月3日のcecil_scott_foresterさんのコメントを読まずに書いているので少し(ではなく)ずれたことを言っている可能性があります。
私の中には「霊が存在するとしたらどのような可能性があるか」といった具体的な理論はありません。
正確にいうなら、99.99%ぐらいは錯覚や幻覚などであると思っていますがそれすらもクリアする0.01%はあると思っています。しかし実際に0.01%に値する現象があったとして「どのような説明をしたら合理的であるか」というのは考えたことがありません。いえ、むしろそういう理論を知るために知恵袋にいます。(もちろん他のブログやら掲示板やらも見ます)
その一つがcecil_scott_foresterさんの提示される理論です。
私はこの理論は魅力的だと思います。そして「現行の科学と矛盾していない」ように見えます。でもやはり矛盾までいかなくても「飛躍」があるように感じるのです。それについては説明してもらいました。
今まで、私は問題があるとしたら「土台の部分」だと思っていました。ある意味それは正しかったわけですが、これからは「メタ」な議論はやめてもう少し具体的な話をしたいと思います。
定義を決めていなかったのは「メタな議論だったから」と考えているのですが、メタな議論はすれ違うととことんすれ違ってしまうのが欠点です。
>「超常現象の解明に科学を使うことが不適である」
というのは確かに私の印象であり、cecil_scott_foresterさんの書き方が「科学」と「そうでない部分」の区分が曖昧に見えるのも私の個人的な印象です。
そしてcecil_scott_foresterさんによれば私から見て「そうでない部分」も「科学的主張の範囲である」ということでした。もっと正確にいうなら
>実験科学と理論科学では仮説の扱い方が違う
ことからcecil_scott_foresterさんにとっては「科学的な仮説」でも私にとっては「科学的ではない仮説」になってしまうんでしたね。
ここまでお付き合いしていただいてようやくわかったのですからこの溝は大きかったわけですね。
ここからは当初の予定からお待たせしてしまったとおり内容について少し具体的に踏み込みたいと思います。
余談:ところで、私が極めて実証性の高い分野(バイオテクノロジー)にいることは理論物理学が理解できないことの理由にはなりません。これは私の勉強不足と絶対的な知識量の差ですね。議論する上で必要な知識を付け焼刃で整えても仕方ないのは理解しているんですが出来る限りは努力します。
肯定派だろうと否定派だろうと懐疑派だろうと尊敬できる人はいますね。私の場合はそういう人が懐疑派に極めて多いというただそれだけの話です。唯一困っていることは「肯定派は純粋」「否定派は頑固」「懐疑派は皮肉屋」というステレオタイプが私の中で形成されていることです(苦笑)
追記:もたもたしてたら質問の補足もBA決定もできませんでした。すみません。
書きたいことは丁寧でなくともサッサと書いてしまった方がいいかもしれませんね。ちょっと忘れつつあります…。
本日(11月6日)は珍しく16時30分まで講義が入っているのでそのあとにお返事を作成します。
気長にお待ちいただけるとありがたいです。
返事を書いているときに展開がまったく別の方向に行ってしまったので書き直しているのですがこれはこれで私の考えを反映している文章なので参考までにあげておきます。
私もつい最近まで(アインシュタインとは比べ物にならないほど飛躍のないレベルですが)論文投稿のために実験をしておりました。
論文にまず求められるものは「新奇性」です。
どんなに堅実な研究でも発展性がなければ意味がないのですね。
次にその新奇性を支える「結果」と「考察」です。
どんなに奇抜で優れた研究であろうと「新奇性」を示すような「結果」が欠けている場合、「結果」と「考察」の間に飛躍がある場合にはその論文は却下されます。簡単にいうと「雑誌に載せるには証拠が足りない(研究不足である)」ということです。
次に、結果を出すために用いた「材料と方法」です。
結果がどんなにゆるぎないものでも「方法」がめちゃくちゃであれば結果はまったく信用できないということになります。
このようにすべてのことは独立ではありません。
私の知る限りレベルに達していない論文が載ってしまうと「雑誌の信用問題(信用性の低下)」「論争の紛糾」が起こります。
信用の低下や無用な論争を起こさないために「査読」があります。
査読はピアレビューという方式が取られています。査読を行う人たちはとても厳しい目を持っています。第一に、同じ分野の研究なので「この論文は自分たちの研究の信用性を貶めないか(証拠不足なのに出していないか)」をという理由があります。第二に、「まさに今自分たちが行っている研究とかぶっている(あるいは矛盾している)と困る」という理由です。このあたりは人間の性根の悪さが出そうですね。ただ「不当な根拠」を元に却下することはできません。第一の理由は根拠さえ揃っていれば査読は通ります。第二の理由はできてもせいぜい雑誌の掲載を遅らせる程度のことで、研究結果さえ確かならばちゃんと通ります。
では通らなかった場合にまず何をするか。
1.差し戻し(revise)の場合は査読者の指摘した部分について追加実験を行う。
2.却下(reject)の場合はワンランク下の雑誌に投稿する。
それでも却下されてしまう場合ももちろんあるわけです。
さて、それでは受理(accept)されて雑誌に掲載されれば「科学的証明がなされた」と見做せるでしょうか。
答えは「いいえ」です。
この正しさが証明されるには更なる研究や他の(一見まったく関係のない)研究が必要な場合があります。特に理論物理学ならなおさらです。反対に研究が進むにつれて否定される場合もあります。
「間違いは正されていく」
私が科学を好きなのも「正しさ」に対する執拗なまでの厳しさが理由です。
科学は他人に厳しく自分に厳しいのです。人間が介在すると解釈(説明)が簡単にねじ曲がったりします。しかしそれでももっとも客観性を強いられもっとも事実に忠実にありなさいとするのが科学だと思います。
以上の文章は30日の午前中に書いてます。最新のお返事(30日深夜)を頂く前です。
基本的な考え方が同じであることがわかります。なのにコンセンサスが得られない(主に私の方の理由で)。
まだどこに些細な、しかし決定的な違いがあるか理解できずにいます。
12/10追記:意味が通るように青字の解釈(説明)がを追加しました。
私もつい最近まで(アインシュタインとは比べ物にならないほど飛躍のないレベルですが)論文投稿のために実験をしておりました。
論文にまず求められるものは「新奇性」です。
どんなに堅実な研究でも発展性がなければ意味がないのですね。
次にその新奇性を支える「結果」と「考察」です。
どんなに奇抜で優れた研究であろうと「新奇性」を示すような「結果」が欠けている場合、「結果」と「考察」の間に飛躍がある場合にはその論文は却下されます。簡単にいうと「雑誌に載せるには証拠が足りない(研究不足である)」ということです。
次に、結果を出すために用いた「材料と方法」です。
結果がどんなにゆるぎないものでも「方法」がめちゃくちゃであれば結果はまったく信用できないということになります。
このようにすべてのことは独立ではありません。
私の知る限りレベルに達していない論文が載ってしまうと「雑誌の信用問題(信用性の低下)」「論争の紛糾」が起こります。
信用の低下や無用な論争を起こさないために「査読」があります。
査読はピアレビューという方式が取られています。査読を行う人たちはとても厳しい目を持っています。第一に、同じ分野の研究なので「この論文は自分たちの研究の信用性を貶めないか(証拠不足なのに出していないか)」をという理由があります。第二に、「まさに今自分たちが行っている研究とかぶっている(あるいは矛盾している)と困る」という理由です。このあたりは人間の性根の悪さが出そうですね。ただ「不当な根拠」を元に却下することはできません。第一の理由は根拠さえ揃っていれば査読は通ります。第二の理由はできてもせいぜい雑誌の掲載を遅らせる程度のことで、研究結果さえ確かならばちゃんと通ります。
では通らなかった場合にまず何をするか。
1.差し戻し(revise)の場合は査読者の指摘した部分について追加実験を行う。
2.却下(reject)の場合はワンランク下の雑誌に投稿する。
それでも却下されてしまう場合ももちろんあるわけです。
さて、それでは受理(accept)されて雑誌に掲載されれば「科学的証明がなされた」と見做せるでしょうか。
答えは「いいえ」です。
この正しさが証明されるには更なる研究や他の(一見まったく関係のない)研究が必要な場合があります。特に理論物理学ならなおさらです。反対に研究が進むにつれて否定される場合もあります。
「間違いは正されていく」
私が科学を好きなのも「正しさ」に対する執拗なまでの厳しさが理由です。
科学は他人に厳しく自分に厳しいのです。人間が介在すると解釈(説明)が簡単にねじ曲がったりします。しかしそれでももっとも客観性を強いられもっとも事実に忠実にありなさいとするのが科学だと思います。
以上の文章は30日の午前中に書いてます。最新のお返事(30日深夜)を頂く前です。
基本的な考え方が同じであることがわかります。なのにコンセンサスが得られない(主に私の方の理由で)。
まだどこに些細な、しかし決定的な違いがあるか理解できずにいます。
12/10追記:意味が通るように青字の解釈(説明)がを追加しました。
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