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日常に潜む疑似科学的なことをメインに食指の動く方にのらりくらりと書いていく雑記です。
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以下、知恵袋より転載

 「科学」に対する質問アンケートのようなものです。
連続でいくつか質問を
立てますがすべてに答える必要はありません


興味のない方はどうぞスルーしてください。

**********
*************************************
「科学的に証明された
」とはどういうことだと思いますか?(思っていましたか?)
できればなぜそう思っ
ている(いた)のか教えてください。

1.メカニズム(原理
)を含めすべてが解明されていること
2.メカニズム(原理
)までは解明されていないが相関関係や因果関係が明らかになっていること
3.メカニズム(原理
)までは解明されていないが相関関係があること
4.「科学的に証明さ
れた」という記述とともに小難しい説明があること
5.わからない
6.それ以外
**********
*************************************

私は1の意味で使って
いた時期があります。
実際には2までが「科
学的に証明された」の範囲であり、私も自分の研究分野では2の意味で使っていました。
1だと思っている人が
多いんじゃないかなと思って質問させていただきました。
1だと思って科学的に
批判している人、1だと思って科学を批判している人、2だと思って科学的に批判している人、それぞれ話がかみ合わないんじゃないかと思います。
この部分(いわゆる前
提条件)をすり合わせることで有意義な議論ができるのではないかと考えています。

参考:
http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20080729/p1
http://shibuken.seesaa.net/article/103777695.html

※カテゴリーはYah
oo!知恵袋の候補から選んでいます。カテゴリーの趣旨にそぐわない気がするんですが大目にみてください。

補足
確かにその通りです。

しかし私の中でそれは
「科学的」という枠に収まってます。つまりこの質問の前提に含まれています。
「現在の科学では」(
おそらくこれからも)再現性というのは非常に大事ですね。
もし方法の妥当性を述
べないのならそれは3に入るんじゃないかと思います。(=AをやったらBが起こった)
ってこういう意味じゃ
ないのかな?「科学的」という漠然とした語の選び方がまずかったのかもしれません。す
みません。


むいみ な 日記からの転載

>私は科学そのものを全否定したことは一度もありません。
今までに私を含め誰かが「cecil_scott_foresterという人は科学を全否定している」と言ったことがあったでしょうか。そんなことは最初から問題にしていません。
cecil_scott_foresterさんが科学に理解があるのは知っています。
ただ「なぜ誤解を与えるような文章をわざと書くのか」が気になっており、その原因が奈辺にあるのかが知りたいのです。

霊の存在について「科学的に証明されていない」「非科学的」は当然の指摘ですが本来はすべきではありません。もともと科学の範疇ではないので。ではなぜ科学的な批判が行われるのかというと「科学の範疇に入ってきているから」です。
「科学の適用範囲(有効範囲)は小さい」「科学は万能でも完成されてもいない」「霊を科学的に検証するのは実質的に不可能である(実験と観測に再現性が取れないから)」というのはまったくその通りです。

しかし「『科学の範疇に入ってきているから』には科学の物差しで測られるべきではありませんか?」というのが私の主張です。
そして多くの懐疑派の主張は「今現在、自然現象を解明するためにもっとも使える物差しは科学であると考えられるのでまずはこれを使ってみませんか?」と言うことだと思います。
これに対してcecil_scott_foresterさんの回答は「科学は使えない(科学では検証しきれない)」ということだと思います。違うならぜひおっしゃってください。
それに対して私は「では科学が不適ならどんな物差しを使ったらいいですか?」と訊いています。(たぶん以前にどこかで物差しの話をしたと思います)
たとえばおっしゃっていること(
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1320076238)の信憑性はどのように確かめたらいいですか?「科学」が使えないとしたら何を使ったらいいですか?鵜呑みにするのは私の信条に反します。
たとえばRS理論はその可能性の高低にかかわらず極めて科学的な主張ですね。
cecil_scott_foresterさんの行う科学の主張と私の行う科学の主張は(内容ではなく性質として)何が違いますか?
なぜ片方はOKで片方はNGなのでしょうか(これは私が勘違いしているのでしょうか?)

これがいつもわかりません。

 

補足:RS理論(科学的)を元に展開された「霊は異次元の存在である」という主張はcecil_scott_foresterさんの主張は科学的 ではありませんね。では、私がcecil_scott_foresterさんの主張を科学的に批判することは的外れなのでしょうか。私はそうは思いませ ん。

 

根拠が「科学」ならば「科学的な検証を受けるべき」というのが私の主張です。

 

10月28日9:43 追記:向こうに書くべきではないのでつぶやいておきます。

 

私 がイライラ?焦っているように見えるとするなら、リアルの方での忙しさの余波かな?と思います。でもどちらかというと1話したら0.5で返ってきた、みた いな内容の薄さ(丁寧過ぎて逆にわかりにくい)感じと、伝わらないなぁ、この方法じゃ上手くいかないなぁという諦観が若干あるかもしれない。

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無題
質問主のharesora38です。
皆様回答ありがとうございます。いかに自分の理解が足りていないかがわかって少し嬉しいです。

取り急ぎお答えしたいことがあったので別IDでお答えいたします。
>皆様
申し訳ありませんが、当初よりcecil_scott_foresterさんとの対話を考えて質問を立てました。
質問の趣旨自体は変わりませんので***で囲まれた部分のみご回答ください。
また、私自身も至らないところが多いので対話に対する突っ込みも歓迎します。
相関関係と因果関係など、知っている「つもり」で理解しないで書いている部分があると思います。
そのへんを指摘していただけて大変ありがたいです。

>cecil_scott_foresterさん
申し訳ありませんが、この質問は独立して残しておきたい(cecil_scott_foresterさんや他の方の回答を他の方も閲覧可能な状態で残しておきたい)のでお手数ですが次に書く予定の内容を補足していただけましたらその趣旨に沿った質問を立てます。それでご了承いただけますか?

なお、申し訳ありませんが私の印象は以前の対話からまったく変わっておりません。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1314898818

質問の趣旨に沿わない質問があるのですが知恵袋質問をすると指名質問になりますので詳しくはブログの方に書いておきますのでお手数ですがご覧ください。
今後もう少し一般化した質問を立て(られるように努力し)ますのでもう少しお時間をいただけますか?
もしくは掲示板、ブログ(長文コメントのできるものも登録しています)等をご検討ください。
ただし私は多くの人に見てほしいので知恵袋で続けられるのなら続けたいです。
http://blog.livedoor.jp/blackrook368/archives/51252512.html

追記:cecil_scott_foresterさんへ
質問は立てますが、その内容では納得できません。
ブログでの主張の論点は
・「根拠(科学的)」と「主張(仮説)」の間に飛躍がありませんか?(事実だと受け取られませんか?)
・あなたの使う「科学」と私が使う「科学」は何が違いますか?なぜ否定派だけ「科学は万能ではない」といわれるのでしょうか。
・科学が不適であるならば使うべき物差しはなんですか?
かろうじて答えていただけたのは「飛躍がありませんか?」→「文学的表現です」というところでしょうか。
私が知りたいのはその先です。

追記2
えーと…
>最初はご質問の意図を確認整理し、誤解があれば解消し
とありますね。まず前提条件の意図を確認整理し、誤解を解消するために書いてます。
たとえば「科学が不適なら使うべき物差しはなんですか?」とは以前の質問(上記URL)でもお話ししたことだと思います。
実際に対話をしてみて、個別の問題に発展する前に前提条件のすり合わせが大事だと考えました。
ここをおざなりにして先に進んでも何も進展しないでしょう。
私はそのように議論を進めていくものだと思っていました。
私としてはcecil_scott_foresterさんのように科学にも超常現象にも造詣の深い肯定派の方とお話しする機会がないのでゆっくり議論を進めていきたいと考えています。むしろ私の書き込みが遅くて申し訳ないと思っているぐらいです。
むいみ 2008/10/28(Tue)10:02:18 編集
対話を始めるにあたり
議題が確定したのでいよいよ質問にお答えするところまで来ましたが、”私 がイライラ?焦っているように見えるとするなら、リアルの方での忙しさの余波かな?と思います。でもどちらかというと1話したら0.5で返ってきた、みた いな内容の薄さ(丁寧過ぎて逆にわかりにくい)感じと、伝わらないなぁ、この方法じゃ上手くいかないなぁという諦観が若干あるかもしれない。”ということの様なのでその点について説明しておきたいと思います。


が、その前に対話をするにあたって申しあげておきたいことがあります。

この様に内心の本音が書かれていた方がharesoraさんが何を考え、どう反応しているのかが分かりその点は良いのですが、そのこととは別にご自身もブログの中で自覚されている様にときどき文章に生な感情がぶつけられ、本論からすると”余計な一言”が付け加えられることが多いことが大変気になります。
これは”リアル”であろうと”バーチャル”であろうと直接対面していないだけであって、実際には”実在の人間”を相手にしている以上マナーとしてはあまり感心できません。
相手には理性的というより感情的な人だと思われる上に、相手もまた感情的にさせる煽りにしかなりません。(私自身はだいぶなれましたが)
そうすると対話から議論に、議論が討論になり、最後は罵倒に終わるか、討論打ち切りで結局なんの成果もあがらず時間とエネルギーの浪費になるだけです。
この場ではどこまでも本音で語っていただきたいとは思いますが、しかし何か最後に一言付け加えたいと思ったとき、それが単なる感情の発露としての蛇足になっていないか考えて、出来ればその余計な一言をぐっと抑えて書かなければ誰に対してもスムーズに対話が進むのではないかと思うのですがいかがでしょう。
それが分かっていてもなお付け加えずにはいられないのであれば、せめてなんとかその表現をリアルの世界に準じた”抑制ある表現”にしていただければと思います。


さて、前置きが長くなりましたが、その”1話したら0.5で返ってきた、みた いな内容の薄さ(丁寧過ぎて逆にわかりにくい)感じ”について予め当方の考えを理解していて頂くことが、これからの討論を進めて行くためには重要と考えました。

なぜその様にしか対話が進まないのかは、一度”こちら側の立場”から考えて頂ければすぐにその理由が分かります。

それは否定派にとっても科学的に否定できるだけの物的、観測的根拠がないのと同じように、肯定派にとってもその点は同じだからです。

水道栓をひねれば直ちに水が出るごとく、あるいは壁のスイッチをつければ一瞬で明かりがつくごとく、それはこれこれの事実から明らかです。と《客観的な自然科学的手法》で検証しうる明快な証拠など存在しません。

もし手持ちにそんな決定的な証拠を持っていれば何も出し惜しみなどせず、私などとっくにそれを開示しています。
従って先の疑問点においてもっともその説明に苦労しそうな点は”科学が不適であるならば使うべき物差しはなんですか?”
とう問題になるでしょう。

いま現時点でのその答えは”個人的体験と通常の手段とは認められない方法で得たとさる知識、そしてそれらを解釈する《各個人の理性と論理》によって導かれた確信”ということになります。

これではharesoraさんが納得される答えではないことは間違いないでしょう。
そうするとかつて私自身が辿った道程がそうであったように、その確信に至までの過程を順序よくかつ根気よく一つ一つ煉瓦を積み上げて大きな建物を建てていくようにお話しするしか他に方法はありません。
それはとても2000字に収まる様なものではないのです。

”本来ならばそれら全てを納得するには本が何冊も書けるぐらいの内容が必要なのです。
私自身も10年以上の月日と数十冊の資料と自らの実験と体験が必要でした。
少なくとも科学指向の方の納得を得るにはそれぐらいの努力は必要なテーマであることをご認識い ただきたいと思います。
そうでなければこのテーマが世界中で延々と続けられ繰り返されていることはないのですから。”
というのはそう言うことなのです。

唯物論的根拠を陳述することは”客観的”な証拠を見せるだけで済みます。
しかし、私が根拠を求められている事象にはその様な客観性はめったにありませんし、物的証拠もねつ造という一言で一蹴されてしまいます。
その様な唯物論的常識や思考方法から一旦離れ、顕幽両世界を俯瞰して同時に見渡すより高い位置から考えられなければ理解できない性質の事象を扱っているのです。
信じる信じないではなく相手の思想や価値観や主張の根拠を《公正な》立場すなわち論理的に理解しようとするならば、私が科学を学んで理解したようにharesoraさんも、精神世界を”理解する”必要があります。
実際大多数の否定派はその否定している当の事象や相手の主張の何を理解しているでしょうか?
私から見ると実はオカルト映画や超常現象を扱った番組や雑誌の”とんでもなさ”を信じているのがオカルト信者、信じなかったのが否定派なのではないでしょうか?
あるいはインチキ霊能者や占い師を信じたのか、信じなかったのかということでしょうか。
いずれにしろそれらの情報源は偏り、誤っていて真実にはほど遠いガラクタに過ぎません。
結局否定派も持っている情報の多くはオカルト信者と同じ粗末なものなのです。
否定派の大多数は始めからオカルトと一括りにしていて、自分が実際には何を”否定”しているのかも知りません。
そしてその否定している論理的根拠も実は何も無いのです。
つまりそう”思っている”、あるいは”そう信じている”という点ではまったくオカルト信者の論法と変わりません。
実は両者は良く似た双子なのです。
ただ鏡のように左右が逆になっているだけです。
そのことを知恵袋で私は気づかせようとしているのです。

しかし、現時点では私がharesoraさんの問いに対して答えられることは、haresoraさんの理解が及ぶ範囲でしか説明できませんし、それ以上の話にいきなり進んでも余りに”飛躍し過ぎている”と結局は理解出来ないことは目に見えています。
現時点でさえ”飛躍し過ぎている”と感じられているのですから、理解できる以上の話をすることはこの対話自体を有意義に成功させる上では百害あっても一利もありません。
そしてharesoraさんをより強固な否定派にするだけでしょう。

これが”1話したら0.5で返ってきた、みた いな内容の薄さ(丁寧過ぎて逆にわかりにくい)”と感じられる原因です。

今はこの説明に納得されなかったとしても、対話が進む内に言っている意味が少しずつ理解されることと信じます。
この対話の本質的な部分に進むにつれ、たかがオカルト相手と遠足のハイキングぐらいのつもりだったとしたら、実は本格的な山岳登山だったということになるかもしれません。
私の目には多くの疑問点はそれ程解消に苦労はしないとしても”科学が不適であるならば使うべき物差しはなんですか?”の物差しの部分つまり根拠を真実だと検証する過程や手段について、一定の理解を得るにはharesoraさんが思っておられる以上に時間がかかるであろうことが、かつてその全く同じ登山ルートを歩いてきた私には分かるのです。

次回はこの話の流れから”科学が不適であるならば使うべき物差しはなんですか?”を皮切りとして一応疑問全てに関してお答えします。

そこで更に論点の整理をし、出来れば比較的相互理解が出来そうなテーマから先に選んで、個々の議題について集中的に論じていきたいと思います。
cecil_scott_forester 2008/10/28(Tue)21:23:17 編集
私の立ち位置をはっきりさせておきます
ブログの方にきていただいてありがとうございます。
まず謝っておきます。
「内容の薄さ」というと失礼にあたるかもしれませんが丁寧に書かれていることは十分に理解しています。1:0.5は文章量の話でね。丁寧に書かれるからこそ時間を取られてしまう。ただ、知恵袋では仕方ないと思いますがもしこちらで続けられる御意志がありましたらそこまでの丁寧さは必要ありません。
次に「この方法じゃ上手くいかないなぁという諦観」という文章は私に向けられています。私の採っている方法(たとえば知恵袋での一問一答)は議論を進めていく上で良い戦略とは言い難く、私自身の計画性のなさを嘆いています。
確かに書くべきではなかったですね、失礼しました。

コメントに対する回答はまた膨大になるおそれがあるので一旦置いておいて、cecil_scott_foresterさんの発言に対する私の見解を含めて少しお話しします。

まず第一に、知恵袋の性質上仕方のないことかもしれませんが、私が行いたいのは根拠のない肯定・否定ではありません。
ここ一年ほど強く感じているのはcecil_scott_foresterさんもおっしゃるとおり「決定的な証拠」となる強く肯定できる事実(私は便宜上、積極的肯定と呼んでいます)や強く否定できる事実(積極的否定)がないから「状況証拠」のような弱い肯定(消極的肯定)や弱い否定(消極的否定)に終始している、するしかないという状況です。
私が知恵袋に参加したときに一番やりたかったことというのは「状況証拠のような目撃談や体験談の検証」です。すぐに知恵袋はそういう場所じゃないんだと理解しましたが。
少なくとも今のように「批判の仕方に問題がある」とか「肯定派と否定派のいがみ合い」を望んではいませんでした。たとえばクロワゼット氏の議論がわかりやすいと思いますが、私はああいう発展的なことを望んでいます。

次にcecil_scott_foresterさんの回答に関する印象です。
私は今までcecil_scott_foresterさんの書かれた根拠(前世療法のブライアン・L・ワイスの話や生まれ変わりの話)を真っ向から否定したことはないと思います。私自身がこのような実験はもっとされるべきだと考えているからです。
ではどこに違和感を抱いているかというと「その根拠ではそこまでの主張はできない」というところですね。たぶん、以前の私はそのことに気づいていないと思います。cecil_scott_foresterさんの回答に対する違和感というものを感じつつもどこに違和を感じているのかわからない状態でした。考えて考えてようやく見つけた糸口がそこです。

そして最後に、科学に対する過小評価です。
これはもう散々言ってきたので耳にタコでしょう。
おそらく「私の科学に対する評価が相対的に高い」ことも影響しているのでしょうが、科学に対する評価の違いも理解の妨げになっていますね。
コメントの内容に少し触れますが、cecil_scott_foresterさんのおっしゃる
>個人的体験と通常の手段とは認められない方法で得たとさる知識、そしてそれらを解釈する《各個人の理性と論理》によって導かれた確信
すら一部は科学に包括可能だと私は考えています。
たとえば『個人的体験』の検証をするとしたら科学的方法論が有効であると考えます。
『通常の手段とは認められない方法』が後に科学的に妥当だと考えられる方法になる可能性もあります。
おそらく問題は『解釈』と「論理の展開の仕方」なのだろうと思っています。


さて、最後に私が疑問に思っていることをお伝えします。
一般的にオカルトといわれる領域でもっとも足りないと感じていることがあります。
それは知識体系の集約と統廃合です。
「~流」ではないですが、この領域では個人あるいは小集団において「独自の理論と解釈」が存在し、時にはそれらがお互いの理論を補強し合ったり矛盾したりしています。
これらが体系化されたものについては見たことがありません。なぜ行われないのでしょう。
言い方は悪いですがとても「閉鎖的」に見えます。そしてこれらの作業を行わないのに否定派の批判を「的外れ」だといい、否定派が要約してみても「そんなことを言ってない」と言われます。理解される努力をしないのに理解しない側を批判するのはなんでなのかな?と思います。もちろん、これは否定派にも言えますよ。肯定派の意見を頭ごなしに否定する態度は理解する努力をしていないと思います。
「理解される努力」や「理解する努力」は私やcecil_scott_foresterさんが努力しただけでは解決できませんが、知識の体系化は努力していけば進む作業だと思います。
というか、そういう「個人のまとめサイト」のようなものや本があることは知っているんですがたとえばあるサイトの用語・知識・理論(A)を使っても今目の前にいる人の用語・理論(B)に通じない、ということがあります。AとBと(以下略)同士、つまり肯定派同士での切磋琢磨が行われないのはなんでなのかと思っていますし、ここをもっと話し合えばもっと理解が深まるのに…というのが科学を使う者としての意見です。


長くなって方向性を見失ったコメントになってしまいましたが、参考程度に見ていただけると幸いです。
むいみ 2008/10/29(Wed)13:30:24 編集
Re:私の立ち位置をはっきりさせておきます
>1:0.5は文章量の話でね。

1:0.5は文章量の話ですね。

自分で読んでなんて横柄な書き方なんだろうと思ってしまいました。

追記しておきます。
この議論は知恵袋での回答を制限するものではありませんので片手間(というと非常に聞こえは悪いですが)程度で結構です。
何よりも優先して行うべきものではなく、慎重にしかしもっと肩の力を抜いて少しずつ議論を重ねていきたいと思っています。
ただその分、cecil_scott_foresterさんには長い間お付き合いいただくことになるかもしれません。
【2008/11/18 21:00】
第一回目の対話
私の発言に対する見解についても特に”知識体系の集約と統廃合”についてはいずれ回答させていただきますが、なかなか最初の議題に進めないので取りあえず初期設定の議題を進めその後か他の回答に絡めてお答えできればその様にします。

回答を明確にするため議題を次の5つに分解します。

1.「根拠(科学的)」と「主張(仮説)」の間に飛躍がありませんか?
2.事実だと受け取られませんか?
3.あなたの使う「科学」と私が使う「科学」は何が違いますか?
4.なぜ否定派だけ「科学は万能ではない」といわれるのでしょうか?
5.科学が不適であるならば使うべき物差しはなんですか?

1.「根拠(科学的)」と「主張(仮説)」の間に飛躍がありませんか?

飛躍という言葉をネガティブに捉えておられますが、それは否定的な立場から見ての話です。
そもそも科学の世界においてその説の発表当時、周囲の理解を全く得られずオカルト扱いされた主
張など珍しくないのではないでしょうか?

たとえばアインシュタインが相対性理論において”物体は光速度に近づくほどその長さが進行方向に対して縮まる”と主張すると、当時の高名な数学者が相対性理論に反対して「この杖が運動すると長さが縮むなどということは固体に関する”定義”に反する」とその豊かな学識と品位ある言葉で反論し幾度も学術講演を行いアインシュタインの説を攻撃しました。

当時は同じ様なことが世界中で行われましたが、要するにアインシュタインの説は当時の科学界の
多数派の常識からすれば今で言う”オカルト”と見なされていたのです。
つまり当時の物理学の”根拠”であるニュートン力学的世界観にとっては受け入れがたい、その常識や定義から飛躍した”主張”でした。

むしろ科学の歴史とは科学的に不可能と言われたことが実現したり、証明されたりしたことの繰り返しではなかったでしょうか?

今日でも後に革新的な説として認められる論文が何度も学会誌に発表しようとしても査読が通らず

審査から落とされ発表すら出来なかったといったことも実際に起きています。

真面目な研究者ほど既に定義され証明されたことを絶対視し、その定義や常識に反する新たな知識を受けつけられないものです。

この保守性はおそらく人間の習性なのでしょう。
これと全く同じことをかつては真面目で真剣で敬虔な神学者と科学者がやっていました。

ちなみに先にあげた相対性理論の一番最初の論文は「動体の電気力学について」というタイトルで
したが、その論文は特徴的で”権威ある”書籍からの引用も参考とすべき文献資料も示されていませんでした。

要するに完全に当時の常識や定義といったものから全く超然としていたのです。

従ってその主張が現状の科学や常識に対してどれほど飛躍していても、それ自体はその主張が証明できさえすれば何の問題もありません。

従って”飛躍していること自体”には何ら問題はありません。

なお、証明可能か否かについては議題1とはまた別のテーマになります。

なお、”かろうじて答えていただけたのは「飛躍がありませんか?」→「文学的表現です」というところでしょうか。”

この理解についてですが主張の飛躍は純粋にそれぞれの世界観の落差の問題であり、文学的表現とは全く関係ありません。
私が言っている文学的とは学術論文に対して私の文章は散文であることを言っているに過ぎません。


2.事実だと受け取られませんか?

現状の科学界の常識に対して飛躍していないかという意味ならば、その通りであると積極的に認め
ます。
またそのことについて何の後ろめたさもありません。

飛躍しているといっても現状の科学的成果をも内包する新たな概念の提示であり、最終的には現行

科学と矛盾するものでも、否定するものでもありません。


3.あなたの使う「科学」と私が使う「科学」は何が違いますか?

全く同じと言っても良いですが、ただし私の科学の領域はその主張するところにより、現行科学の領域を全て包括するものです。

その意味ではその違いは”あなたの「科学」<私の「科学」”ということになります。

この質問が言下に言っていることは”あなたが使う「科学」と言う言葉と、私が使う「科学」という言葉が違うのではないか”ということでしょうが、”あなたの”科学は”私の”科学の基礎であり、論理的根拠にもなっていて、その存在無くしては私の否定派に対する反論は全く成り立ちません。

事実私の主張する前提自体は飛躍的だとしても、その論証自体に使われている科学知識は全て”

あなたの”科学の範疇に収まっているはずです。

つまり”あなたの”信じている科学の領域は私の信じている科学に含まれているので、”その部分”においては完全に一致するものです。


4.なぜ否定派だけ「科学は万能ではない」といわれるのでしょうか?

別に肯定派に対して同じ事を言っても一向に構いませんが、それではどちら向きに反論をしている
のか不明確になります。

そもそもこの質問は私にとっては少し不思議な質問の様な気がします。

要するに私はいわば肯定派の立場で知恵袋を法廷とみなし、閲覧している人々を陪審員としてその
弁護をしているのです。

従って私は主張の”公正さ”は意識しています、前にも申しあげたとおり論文を書いている訳ではないので双方にとって”公平な”扱いの文章には意識的になっていません。

それは肯定派のための有力な論点なのであって、わざわざ否定派のために字数を裂く必要もまた字数制限上の余裕もありません。

あくまでその主張するところを明確にすることで見る人をいかに納得させられるかが、限られた字数の中で私の文章力で出来る精一杯のことです。


5.科学が不適であるならば使うべき物差しはなんですか?

この議題は最も重要なテーマです。
そのため本格的な回答はまた次回にすることにしました。

ただし誤解のある点は解消しておきたいのですが、この問題を解決するに最も適する物差しは”科学”です。
不適なのではなく、あまりにも科学が唯物論的な自然科学的証明に偏りすぎていて、個々の個人の無数と言って良い体験や臨死体験、生まれ変わりの研究、そして管理された条件で行われた交霊実験による検証などを非科学的として排除しようとする、その自然科学万能主義に問題があるのです。
なお、私にとって”科学的”とは論理的ということであり、つまり科学的思考に基づく検証手順、実験方法などは私にとってもこの問題を解明するための最も重要なツールです。

つまり科学そのものが不適であるというより、現状の社会に蔓延している唯物論的世界観だけで科学を用い世界を解釈することが不適なのです。


次回はテーマ5の後半についてを中心に1~4までの回答に何かまたご疑問があればお答えします。
cecil_scott_forester 2008/10/30(Thu)01:40:00 編集
Re:第一回目の対話
最初に書いておきますが、私は論文のような精確な文章を求めているわけではありません。内容の正確さは求めていますが、記述の正確さを問題にしているわけではありません。以下でも論文を「例え」に使っていますが、これは私が説明しやすく、cecil_scott_foresterさんが論文について理解があるから行えるたとえであると解釈していただければ理解の助けになるのではないかと思います。

ええと、一番忘れて欲しくないのは、アインシュタインの発表した理論は当時の物理学の常識からは画期的でとんでもなく飛躍的ではあったものの「矛盾するものではなかった」というところでしょう。
アインシュタインの理論には根拠となる膨大な計算式があったはずです。
当時の学者がそれを理解できなかっただけでそもそも矛盾はなかったということでしょう。
肯定派のみなさまが挙げている根拠は「難しすぎて理解できない」レベルではありませんし、物理法則とも矛盾する、あるいは仮説の上の仮説である(アインシュタインと比べるのは失礼なレベル)だと考えています。
そもそも、アインシュタインは理解を拒んだわけではありませんし、理解される努力をしていました。
ただ一つ(少数)の例を挙げて「飛躍は問題ない」というのは間違いです。
オカルトと見なされていたものが実際には正しかったという主張ですが、実際にはオカルトと見なされているものはオカルトであるという結果の方が大半であることを忘れてはいけません。
少なくとも両者(アインシュタインの理論と一般的にオカルトといわれる理論)は同一ではありません。


すみません、お返事は書いているもののまとまらないので
5.科学が不適であるならば使うべき物差しはなんですか?
についても私の返事は待たずにお書きくださって問題ありません。
【2008/11/18 20:59】
無題
操作ミスで同じメールが送信されてしまったようです。
また編集で修正しようとしましたがPWを要求されたのでやむを得ずそのままにします。


テーマ1についての返答1に回答

アインシュタインの最初の論文は簡潔でその内容の大部分は「難しすぎて理解できない」どころか高度の専門知識が無くても理解でき、従って長大な計算式などはなくその要点は次のたった二つの”仮定”を基礎としています。

1.互いに相対的に等速度で並進運動をしている座標系のうちの、どの座標系を基準にしても、物理学的な系の状態の変化を規定する法則は一定不変である。
2.静止している物体から発したものであろうと、あるいは、動いている物体から発したものであろうと、すべて光線は、静止している座標系のなかではcという一定の速度を持っている。

なぜわざわざこの部分を抜粋したかというと、彼は相対性理論の発表当時物理学の教授ではなく、それどころかいかなる研究所にも所属せず、スイスの特許局の役人に過ぎず、つまり当時使われていたいかなる科学実験装置も用いず、頭の中での《思考実験》だけで上記の仮定に
たどり着き、”論理”(私のいう科学的思考)のみによってその主張を組み立てたのです。

その辺のことを知る人は彼を物理学者ではなく”哲学者”だと評しています。
この場合の哲学者とは古代ギリシャ時代の現代の科学者の祖である”自然哲学者”のことです。
かれらも当時知られていた限りの知識を基に、何の科学機器も実験装置も用いずに論理的思考という科学によって原子という概念や地球が球体であることとそのおおよその直径、そして地球ではなく太陽が中心であるなど様々な本質を突く仮説が生み出されました。
しかしその多くは当時の知的レベルからすると余りに”飛躍的”だったため、それらの仮説が再び人類の歴史に再登場するには何千年もの歳月が流れました。
その間地動説を唱えて火あぶりにされた者、大陸移動説を唱えて失笑された者、猿から人類は進化したと説いて猛烈な攻撃を受けた者、まだ探せば幾らでも前例は挙げられます。
決して少数などではなく人類の知識のターニングポイントにあたる仮説が登場するたびに繰り返されています。
”実際にはオカルトと見なされているものはオカルトであるという結果の方が大半であることを忘れてはいけません。 少なくとも両者(アインシュタインの理論と一般的にオカルトといわれる理論)は同一ではありません。”
というのはその同一視に異論を投げかけていると共にむしろ私自身反オカルトの立場であることを明確に述べています。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1219736122

なお議題1について再度私の立場を述べれば科学発展の歴史がまさに仮定が”飛躍している”こと自体は全く問題ではないことを示しています。
今は常識になっているのでもはやインパクトに欠けるでしょうが大陸が動いたり、人間が猿から進化したり地球が太陽の周りを廻っていたり、時間が遅れたり、物体が縮むという主張はその当時の人間にとってはまさに常識からの飛躍でした。
そして”仮定”である以上主張した時点では実際の観測ではなく喩え数学的方程式であろうとそれを証明している必要はありません。
あくまでそれは発想であり、仮想であり、証明されなければ本質的には空想と変わらないものです。
ただし第三者を納得させたければそれなりの”論理”(科学的思考)は必要です。
そしてその仮定を”後に”科学の力を借りて証明したのです。

“「矛盾するものではなかった」”のが確認されたのは相対性理論の発表から14年後の1919年に日蝕の観測で、重力によって光が曲がる事実が観測されてからであり、理論の発表当初はその理論を正当化すべき数学すら十分に発達していない状態でした。
従って専門家の間では熾烈な論争を巻き起こしていたものの、それまでの間は肯定派といえども長大な数式でこの理論を正当化するにも数学自体が追いついていませんでした。
結局決着をつけたのは数学では無く”観測による事実”です。

繰り返しますが飛躍自体はそれがどれほど一般常識からかけ離れていたとしても”間違い”ではありません。
間違いかどうかはその後の証明の如何で評価されるべき問題です。

※念のためテーマ1では仮説の飛躍についてのみ提示されているので証明の問題はテーマ5の中で考えていきましょう。
cecil_scott_forester 2008/10/30(Thu)23:37:06 編集
一旦テーマの整理を行いたいと思います。
ここまでの質疑と応答の間に解決した、あるいは未だに疑問のある点について確認をして一旦テーマの整理をしたいと思います。

まず1~4までのテーマで解決を見た、あるいは一定の理解が出来たというものはあったでしょうか?
なければ各テーマ毎に疑問点などを指摘願います。

念のため私の側の主たる仮説を再度確認しておきます。

霊界とは超ひも理論やRS理論などの物理理論でその存在が予測されている異次元の”世界”と同一のものなのではないか。
また異次元世界が実在するならば、すなわちその異次元世界にも生命体が存在し文明と呼べる社会が成立していると考えることは、現にこの3次元世界に地球及び人類が実在することから鑑みて、この3次元宇宙に地球人類以外にも知的生命体が存在し得ると考えることと比べ著しく合理性を欠く推測ではないと思われる。
そして異次元世界がすなわち霊界であるならば、その異次元世界の生命体こそが霊と呼ばれる存在ではないかと同定し得る。
というものです。

この異次元イコール霊界説はその科学的理解の程度はともかくとして、特に目新しい説ではなく確認出来るかぎり最古の事例では1913年の時点で既に霊界を4次元世界に喩える説明があることが確認出来ます。

私自身の評価では以上の仮定は現行科学の最新理論と同じであるということを言っているに過ぎず、科学からの飛躍には当たらず、むしろ同一性を主張しています。
もちろんそもそも霊界という科学的定義のないものと、純粋に科学的な理論との結合自体には違和感以上のものがあるとは思います。
そして同一であるという仮定の根拠自体が飛躍していればその根拠の信頼性が問われることになります。
しかし仮定そのものには何の科学との矛盾も否定すべき根拠も存在しないことは既に論証済みです。

いずれにしろこの説自体は私の発明ではなく、肯定派の代表的かつ古典的な仮説の最新リメイク版に過ぎません。
ただし私自身は独自の思考過程でその仮説にたどり着きました。

なお、更にまた今までの対話の中ですれ違いの原因と思われる部分を発見しました。
それは
“私は今まで書かれた根拠(前世療法のブライアン・L・ワイスの話や生まれ変わりの話)を真っ向から否定したことはないと思います。私自身がこのような実験はもっとされるべきだと考えているからです。
ではどこに違和感を抱いているかというと「その根拠ではそこまでの主張はできない」というところですね。”
の一文なのですが、私が今まで主たる仮説としていたのは上記の概念について述べていました。
生まれ変わりや死後の世界あるいは守護霊の存在、人生の意味など臨死体験や生まれ変わりの研究成果を根拠として援用している回答は始めから自然科学的解釈に馴染む分野ではなく、それらの研究結果も“証明”の根拠とするだけの科学的証拠として科学を理解している相手に通用するとは始めから思ってはいません。
あくまでもその様な研究が存在し、その様な結果が存在しているという事実を訴えること自体に質問に回答する以上の目的があると言って良いでしょう。
また特に臨死体験については詳細な記録が科学的に検証可能な形で存在しているので、おそらく自身で調べた結論というよりアンチオカルトのサイトから引用してきたような中途半端な否定論、例えば体内の二酸化炭素濃度が過剰になった際の幻覚と臨死体験で見た世界とを同一のものとして幻覚説を主張する否定派にはその幻覚との違いを科学的根拠を基にキッパリと反論することでその研究結果の正当性を閲覧者に印象づけること、つまり飛んで火に入る夏の虫のようなうかつな否定派の主張を論破するのも回答する目的の一つです。

ことによると私が否定派や懐疑派に突っ込まれて快く思っていないと思われていたかもしれませんが、相手に公正さと理性的論理が通用するかぎり、私にとっては自分の論理に磨きをかけるためにも有り難いことだと思っています。
なのでharesoraさんも私に迷惑や負担をかけているかもしれないなどと気になさる必要はありません。
むしろお相手いただき有り難く思っています。

話を戻しますが、つまり異次元世界やその世界における生命の存在までは科学の延長で考えることや科学的議論の対象にはなり得ますが、その世界の”具体的ありよう”つまり異次元世界に実際に知的生命が存在しうることまでは、現行科学の知識を基に対抗出来ても、その世界の具体的社会システムや思想などの文化や異次元世界における生命現象についてまで“見てきたように”主張することはもはや自然科学によって検証できる範疇ではありません。

従ってこれらについて“そこまでは言えない”と違和感を感じられたのは当然であり、私自身そう思っています。

つまりこれらは科学的仮説などといったものではなく、霊界の実在を確信し、また様々な非自然科学的手段によってもたらされたとされる知識を真実として受け入れた一肯定派による質問に対する真摯な回答以上のものでありません。

しかし、テーマ5が深く進めばこれらの世界観についてもいつか詳しくお話しすることになるでしょう。
cecil_scott_forester 2008/11/03(Mon)23:19:13 編集
無題
時間的制約でコメントを返せないでいる間も本当に丁寧なご返答をいただけて大変感謝しています。
これからすべてのコメントを見てお返事しますが「スタンスの決定的な違い」をひしひしと感じています。そしてそれらをお互いにわかり合うことはできてもスタンスを変えることはできないだろうということも感じています。

「イギリス国教会が行ったスピリチュアリズムについての研究」の回答は参考になりました。短絡的な否定派は放置してこのような回答をしてほしい、このような回答だったら何も言わない、というのが私の意見です。
否定派の短絡的な文章は知恵袋でも忌避されているし、私も嫌いです。わざわざそのレベルに合わせる必要性を全く感じません。
むいみ 2008/11/04(Tue)14:03:50 編集
テーマ5に関する私の考えとこの先の議論について
お返事が遅くなって申し訳ありません。
さて、1~4について質問させてもらおうと思ったのですが、cecilさんの意図がわかった今となってはそれらに対する答えもある程度想像できますし、それは私の考え方とは少し違うものの納得できないものではないことがわかりました。1~4について再度質問を行っても第三者に対して「わかりやすく説明する」ことはできても議論のためにはほとんど必要ありません。というか、過疎ブログなので読者がほとんどいません(苦笑)
1~4についてはどうも私の早とちりと推測からまったく違った方向へのアプローチになってしまっているようなのと、どうも今の状態に拘泥していても1~4についてはこれ以上の理解は得られないと思いますので具体的な話を元に議論を進めていきたいと思います。おそらくいずれ1~4についても形を変えて出てくると思いますが5を含めて先の議論に移りたいと思います。


5に関しては、これはもう私の視点からは科学的方法を提示するしかないですし、科学ほど「客観性」を重視するものはありません。でも「客観性」だけではダメなんですよね。超常現象のほとんどが体験談や主観を元にしていますよね。私は別にそれでもいいと思っています。その話の真偽を検証するためのスタートが体験談や主観でもいいと思ってます。ただし「何かがある」といいたいのならやはり誰もが納得しうる手続き(方法)を提示する必要があるでしょう。
私が超常現象関連においてもっとも忌避しているのは「先走った断定」と「「検証の拒否」です。
私は、超常現象の99%以上が現在の科学でも説明をつけることができると考えています。しかし、1%以下の中に、あるいは説明をつけた中にもっと違う、それこそ超自然的な現象があるのではないかとも考えています。ですが現在の超常現象の議論においては肯定派はすべての現象が超常的な力(存在)によって引き起こされているかのように言い、否定派はそれらすべてを(一見合理的な説明で)否定します。
これでは意味がありません。私が行いたいのは真実を見つけるためのふるい分けの作業であり、軽はずみな先走った断定(根拠を提示しない「ある」「ない」などの言い合い)の否定です。

そしてcecilさんに対して私が引っかかっているのはこの「先走った断定」であり「飛躍」です。これに対する返答はたくさんいただきました。そしてたぶん私もcecilさんも回答のスタイルを変えることはないだろうなぁということも理解できました。私は私の考えでcecilさん以外のたくさんの人に突っ込んで突っ込まれてしていますし、それが私にとって身になっているので私は十分満足していますし、同様にcecilさんももっとももっとも大きな成果が出るような書き方をされているんだと考えました。それを私のやり方に反するからと止める権利はありませんし、止めるつもりもありません。
しかしせっかくの機会なのでcecilさんの説について理解を深めたいと思っています。
おそらくこのまま終わっても私はまた突っ込みたくなってしまいます。それは双方にとって不幸です。
どうせならやりきった上で吸収できるところは吸収し、理解し合えた部分はそれ以上かき回さないことにします。

と、おそらくコンセンサスが取れているだろうあたりまで決意表明として書いてみました。
今後の議論の参考のためにお手数ですがテーマ5についてお話しいただけるとありがたいです。

また、次のコメントには理論科学(理論物理学)に関して質問を書きますが、それについても別途で回答いただけるとありがたく思います。
むいみ 2008/11/07(Fri)16:04:37 編集
テーマ5についての対話1
それではテーマ5に移りたいと思います。

実はこの二日間このテーマに対してどのようなアプローチをするのが良いのかずっと悩んでいます。

間口が広過ぎて却ってどこを最初の糸口にするべきかに迷います。

すでに幾つか相当量の文字数まで書き進んだ原稿を没にしました。

例えば私の人生経験の追体験形式の中で疑問点を質問してもらいながら現在に至る方法。
いわば帰納法的手法です。
これは結論に至までの過程が明らかであり理解を得るには確実な方法ですが長大な時間がかかり、ことによったらharesoraさんの忍耐が続かないかもしれません。
あるいはいきなり結論からスタートさせてそれぞれの根拠に合理的説明を与える演繹的手法。
しかしこれは最初から“飛躍的”な印象が強く入り口でつまずいたまま先に進めなくなる可能性が大です。
先に幾つか具体的な質問を立てていただき取りあえずそこを糸口としてとにかく対話をスタートさせる方法。
これは今回の対話で採用された手法ですが、スタートラインとしては都合が良いように思われる反面、質問者側の知識が知りたいテーマに対してある程度のレベルに達していないと、議論がすれ違い続けてしまう危険性が高いという面もあります。
これはharesoraさんの研究している専門分野について全体的なイメージ以外、高度な専門知識はもちろん、基本的な知識も持ち合わせない一般人の質問が専門家からするととてつもなく的外れなものになり、その質問からスタートさせて正しい理解、それも完全に研究者レベルの理解に導くのに途方に暮れるであろうことを想像していただくと分かっていただけるかもしれません。
この場合最初にある程度の知識を勉強して得てもらうことが望ましく、また理解も早くなります。
問題はその資料を読む時間や資料購入の費用などの負担までするだけのモチベーションがあるかどうかです。
しかし、本当に出来る限り科学的に理解をしたいのであれば知るべき対象に付いての必要最低限かつ出来る限り優良な情報を得てから解釈を加えるべきであることは論をまたないでしょう。
その部分まで私に期待されているのかもしれませんが、出来れば今までに推薦している資料図書を事前に読んで頂ければ非常に助かります。
その中からの質問であれば相互に同じ情報に基づいて話せるのでより一層望ましく思われます。

という訳でいわば大学の講義のためのテキストとして『心の科学』という本を推奨します。
もちろん出来ればということで結構なので対話自体はそれを読む読まないにかかわらず進めていきます。

さてそうすると結局どの様に対話を始めようかということですが「テーマ5に関する私の考えとこの先の議論について」をたたき台にすることにしました。
結局主な疑問点はこの中にあるので“その質問が本質からすると遠い”質問であったとしてもその疑問に答えることなくしては納得も理解も進まないと思います。

そこでその文章を私なりに整理しました。

・科学的視点

科学は「客観性」を重視する。
しかし超常現象は主観を元にしている。
立場上科学的視点からの納得と理解をしたいが、主観的視点も真偽を検証するためのスタートとしては認めざるを得ない。
ただし「何かがある」と主張するならば客観的な手続き(方法)を提示する必要がある。
超常現象関連においてもっとも忌避すべきは「先走った断定」と「「検証の拒否」である。
超常現象の99%以上が現在の科学でも説明をつけることができると考える。
しかし、1%以下、あるいは科学的説明がなされた中にも超自然的な現象がある可能性も考えうる。

・超常現象に関する議論の現状

肯定派はすべての現象が超常的な力(存在)によって引き起こされていると説明。
否定派はそれらすべてを(一見合理的な説明で)否定している。
今回のこの議題において行いたいことは真実を見つけるためのふるい分けの作業であり、根拠を提示しない軽率な断定の否定である。

・質問者の回答者に対する最大の疑問点

回答者は「先走った断定」と(科学的)「飛躍」をしている。


これらを更に疑問の提議の形にすると。

1.科学は客観性を重視する。
“科学的視点以外(主観)”から超常現象を説明するならば“客観的(科学的)”な手続き(方法)を提示すべきである。

2.肯定派はすべて超常現象と説明しその根拠を明らかにしない。
一方、否定派は科学的に一応合理的な説明を行っている。
肯定派も根拠を提示しない軽率な断定はやめて合理的な根拠(科学的)説明をするべきである。

3.回答者は「先走った断定」と(科学的)「飛躍」をしている。

となるのですがこの1と2の文章をみると自家撞着に陥っていることが分かります。

結局1は主観的現象であると認めていても最後は客観的すなわち科学的な根拠を求めていることがわかります。
2もやはり否定派は正しいか間違っているかはともかくとして根拠には科学的合理性が認められ肯定派よりその主張において優れていると考えていることが明らかです。

3はその「先走った断定」と(科学的)「飛躍」という言葉からharesoraさんの“主観”ではそのような先入観があることが分かります。
この先走った飛躍的断定というのを客観的な科学的根拠に基づき説明出来るのでしょうか?

私が思うにharesoraさんの科学に対する想いやその現に置かれている環境、また論文作成を通じて叩き込まれた科学的実証性(客観性)こそが事実認識の基本という“科学主義思考”が刷り込まれている様に思われます。

しかし宇宙も地球もそのあらゆる現象・事象も科学どころか人類誕生以前の何億年も前から存在し、今は超常現象と呼ばれている事象も西洋科学が世界の主潮となる遙か何千年も前から記録され続けていまることもまた事実です。
つまり事象そのものは科学の有無とは関係なく事実として“現実に存在している”ということです。
私の科学主義に対する最大の疑問点はそのマクロな事象世界をミクロな科学で理解しようとすることは実は本末が転倒しているのではないか?ということなのです。
現に事実として存在している世界をありのままに理解せず、あらゆる事象すべてを“現状の”科学によって客観的合理的に説明しようとするのは科学哲学的に考えても主客転倒しているのではないでしょうか?
科学は現実を理解するための道具でしかなく、現実は“現実”である以上科学的説明が可能かどうかとは関係なく実在していからです。

その科学主義の思考フィルターを取り除かずには主観的体験に基づく価値観を理解することは出来ません。
誤解のないように申しあげると“理解すること”と“信じること”とは全く別の次元の問題です。
まず“理解”することそれから“解釈”を合理的論理という科学的思考過程で検証する方法でしか納得のいく結論は導けないでしょう。

ある実話をします。
「日本の弓術」(岩波文庫)という本があります。
明治時代ドイツ人のお雇い外国人教師が日本の弓道と出会いそのドイツ的徹底的な合理的論理的精神に対して日本的非合理的直感的思考とがぶつかり合うという話です。
その中のエピソードにこんな会話があります。
いくら師匠の動作を科学的に観察しても、どうしても上手く洋弓のように和弓を扱えないのでその旨を師匠に告白すると「あなたがそんな立派な“意志”をもっていることが、かえってあなたの第一の誤りになっている。あなたは頃合いはよしと“感じる”かあるいは“考える”時に、矢を放とうと“思う”。あなたは意志をもって右手を開く。つまりその際あなたは意識的である。あなたは無心になることを、矢が“独りでに”離れるまで待っていることを、学ばなければならない」と言われた。
当然科学的合理主義者である西洋人教師は「しかしそれを待っていると、いつまでたっても矢は放たれません。私は弓を力の続く間張っています。そうしてしまいには、まったく意識的に矢を放してやらなければ、張った弓に両腕を引き寄せられて、矢は全く放たれるに至りません」と答えた。
すると師匠は「~あなたが全く無になる、ということがひとりでに起これば、その時あなたは正しい射方ができるようになる」と答えた。
それに対して「無になってしまわなければならないと言われるが、それでは“誰が”射るのですか?」と尋ねた。
すると先生は「あなたの代わりに誰が射るのかが分かるようになったなら、あなたにはもう師匠が要らなくなる。(主観的に)経験してからでなくては理解のできないことを、言葉でどの様に説明するべきであろうか。仏陀が射るのだと言おうか。この場合、どんな知識や口真似も、あなたにとって何の役に立とう。それよりむしろ精神を集中して、自分をまず外から内に向け、その内をも次第に視野から失うことをお習いなさい」

この会話の中にも科学的合理思考と精神的非合理思考の違いが良く現れています。
ちなみにこの師匠はどうしても科学的合理精神から離れられないこの外国人を自宅に招き、数十メートル先の暗闇の中に線香を立てその明かりだけを頼りに矢を2本放ちました、一本目は見事に的に当たりました。
そして二本目はその一本目の矢を二つに裂いて当たっていたのです。
それを見たドイツ人教師は疑うことも問うことも思い煩うこともきっぱりと諦めました。

明治時代以来100年以上もの間西洋科学のみを受け入れ日本古来の精神世界を捨て去った結果、現代の日本人はかつての西洋人と同じ科学、合理、客観性ということばを絶対視しています。
しかしそれでは説明のつかない現象を“理解”したいのであればその知識を得る時点では“疑うことも問うことも思い煩うこともきっぱりと諦めて”いただく必要があります。
“その後で”その知識をどの様に解釈しようと、それはharesoraさんのご自由にしていただければ結構です。
くどいようですが“知りたい”のであれば受け入れることです。
しかしそれは信じることとは違います。
客観と主観を等価な知識として理解して初めて公正な評価が下せるという極めて合理的論理すなわち科学的思考に基づいてそう思うのですがいかがでしょう?

長い文章になってしまいまた時間も時間なので文書の見直しはできません。
誤字脱字あるいは文面上表現に問題があるかもしれませんが、ご容赦いただきたく願います。
cecil_scott_forester 2008/11/10(Mon)02:53:54 編集
テーマ5についての対話1【返信1】
遅くなりましたが久しぶりに長文を書きましたので読むのが大変かもしれません。
文章の整理は合っています。
ただ、その先はちょっと先読みしすぎです。
私の言いたいこととはちょっとずれていると思います。

>1.科学は客観性を重視する。
>“科学的視点以外(主観)”から超常現象を説明するならば“客観的(科学的)”な手続き(方法)を提示すべきである。
うーん、ちょっと違います。
科学的な検証を行っているものでもその始まりは個人の「思いつき」や「ある些細な現象に着目すること」だったりします。だから主観から始まるのは悪いことだとは思いません。
ただし何かの「存在を主張」し、それを「認めさせたい」のならばそこにはある一定の手続きが必要であり、現在最も使われておりなおかつ成果をあげているのは科学を置いてほかにはない、ということです。だから客観的な手続きとして科学を挙げているのであって、それが科学として若干邪道でも(科学の範疇から外れても)使う価値があるのならば使っても構わないと思っています。ただしその場合はその方法を使う「必然性」と「蓋然性」を説明すべきであると私は考えます。


>2.肯定派はすべて超常現象と説明しその根拠を明らかにしない。
>一方、否定派は科学的に一応合理的な説明を行っている。
>肯定派も根拠を提示しない軽率な断定はやめて合理的な根拠(科学的)説明をするべきである。
この元の私の文章は肯定派と否定派は対で書いてあります。

肯定                  中立                 否定
←―――――――――――――――――――――――――――→
完全肯定派      肯定派          否定派      完全否定派

たとえばこのようにバロメータがあった場合、肯定派=完全肯定、否定派=完全否定を示しています。
つまり「科学的に説明が可能なこともすべて超常現象として信じ込む人がいる」ように「一見科学的(だけども現象の解説にはなっていない)なふりをして『科学的に解明されていない』と否定する人もいる」、こういう言い合いは(私も含めて)本人たちは言ったつもりになっているけど「ほとんど意味(価値)がないですね」と言っています。
そしてこれではいけませんね、と言っています。

>3.回答者は「先走った断定」と(科学的)「飛躍」をしている。
今回私が対象としているのはcecilさんだけです。
たとえばお名前を出していいかわかりませんが、alakamuさんの主張には科学的に間違いが含まれていたり、飛躍していたりしますが、ほとんどの人はalakamuさんが「科学的である」とは考えていません。しかし、alakamuさんがおそらくは「本気で」回答しているだろうとは思っています。科学の用語を使ったとしても科学的になるとは限らないという見本だと思っています。

しかし同じような「飛躍」はあると考えています。
それが今回の私の批判につながっているわけです。
その「飛躍」の程度がalakamuさんは突飛すぎる(言い方は悪いですが根拠も主張もぶっ飛んでいる)ため誰もが気づき、cecilさんはもっともらしい根拠がついているために主張の「飛躍」に気づかれにくいのではないかと考えています。
むしろここで、なぜ(まったく無知の人に)噛み砕いて説明するために「飛躍」をしてはいけないか、と問われると困ってしまいます。おそらくそれは「私の信条である」としか答えられません。
ちょっと話が飛んでしまうのですが、たぶん私は、今の日本の天然物信仰や合成物忌避の傾向は「科学者が一般消費者に理解されなくてもいいと考えていたことの反動である」と考えていて、そのせいで一般消費者は間違った知識を身につけてしまい、とても安全な国なのにとても不安でいっぱいになってしまった。それは「知識がある人が教えるのを怠った」り「怪しいものを排除するよりも研究の方が大事」と見て見ぬふりをしてきたツケが今になって溢れ出していて、「このままじゃいかん」「研究にも支障を来してしまう」と気づいたもののどうすることもできないまま広がってしまった後だった、という現実を見ているからだと思います。
「科学の世界」では根拠に乏しいものは淘汰されたり追検証されたりしますが、そうじゃない世界では必ずしもそうではないわけです。根拠に乏しいものが無秩序に氾濫しています。
たとえば「水からの伝言」や「血液型性格判断」のように広がってから「あれはウソなんです、根拠はありません」といってもすべての人にその事実を伝えるのは困難です。これら2つにしても「科学的」の程度は異なります。
「水からの伝言」は「科学的に否定されている」レベルです。また、実験がdemonstration以上のものではなくexperimentとは言い難いものです。
一方「血液型性格判断」は「科学的な根拠がない」レベルです。積極的に肯定する根拠はないが「体験談(主観)」からあるような気がする。でもそれについても心理学や生物学的な説明ができるわけです。この場合、肯定と否定は同じぐらいの不確かさではなく、肯定する根拠が圧倒的に乏しいことがわかります。
私は「主観で判断してもいい」と考えることは「血液型性格判断レベルの根拠の乏しさで構わない」と言ってるように見えるのです。
しかしcecilさんのおっしゃっていることはそれでは「もったいない」のです。
おそらく私のやりたいことはcecilさんの方向を向いているので。私がcecilさんを一生懸命追いかけているのです。
ただ、私が言っているのは「今の時点でそこまでは言えない」という一点です。それは私が科学とか客観性を重視しすぎて凝り固まっているというのとはまったく無関係に、ある意味直観的に感じていることです。
だから「なぜ(まったく無知の人に)噛み砕いて説明するために「飛躍」をしてはいけないか」といわれると困る、というのはたぶん、科学とはまた別のところに答えがあるからだと思います(自分のことなのによくわかっていないのです)。だけどそうは言わずに付き合ってくださるcecilさんはとても紳士的な方だと思います。

主観からスタートしてもいい、だけど検証するためには一定の手続きが必要でしょう、というのが変わらない(と私は思っているのですが)私の主張です。


すみません、長くなりすぎましたのでコメントを区切ります。
【2008/11/16 00:55】
これからコメントを読みます
すみません、忙しくて今まで放置しておりました。前回のコメントを書いたときも時間がなかったのでやっつけ的になってしまったのですが、実は私もcecilさんと同じことで悩んでいました。
話が拡散しすぎて私自身はどこから手をつければいいかわからなくなってしまっている状態です。いくつか書いてみましたが論点を明確に絞った議論ができると思えず、今は理論物理学をはじめとして議論の基本に立ち返って自分の議論の仕方も含めて整理しています。

文献等についてですが、自分のライフスタイルを崩さずに読もうとするとおそらく数年~十数年かかると思います。ただエリザベス・L・メイヤーの「心の科学」は現在進行形で読んでいます。

お返事はコメントをしっかり読んでから返しますが取り急ぎ反応しておきます。
むいみ 2008/11/12(Wed)15:47:12 編集
テーマ5についての対話1【返信2】
理解が違ってたら言ってください。

自然(事象)のあるがままを受け入れればいいのに「科学」という手段で切り取り、ときには間違える、それなのに「科学」として理解した気になっているのは傲慢だとする意見があることを知っています。そしてそれは正しいと思います。
そして
>事象そのものは科学の有無とは関係なく事実として“現実に存在している”
という言葉もまったく同感です。
「科学が感知しようがしまいが存在しているものはある」それを科学者が見つけていない(見つけられない)だけだ、という主張があるのも知っています。
ただ、それと科学が使える/使えないこととはまったく別の問題です。
人間の本質には未知のままであるより既知であることを望む部分があるように感じます。これは科学者(科学に精通している者)「以外」が科学に対して「白黒つけて欲しい」「断定してほしい」「安全=無害であってほしい」と望むのと似ています。
そのために人間は科学というものが体系化される前にいろいろな知識を集約してきました。いわゆる「おばあちゃんの知恵袋」だったり「民間療法」だったり「言い伝え・民間信仰」だったりがそれに当たると思います。
これはいわゆる「帰納法」から導き出されている「事実」です。
「AをしたらBが起こった。だからAはBの原因である」というものですね。
だから合っているものもあるし間違っているものもある。じゃあもっと蓋然性の高い方法はないの?というところからいわゆる「科学」という手続きが体系化されたんじゃないのかなぁと思います。いやいや、あまり適当なことは言えませんね。しかし特に自然科学の分野では「科学」という手続きはとても成功しているように思います。もちろんそれは「すべてを理解できているか」「すべてを間違いなく把握できているか」という意味ではなく、事象を合理的に説明できる手段としてある程度上手く機能しているということです。
現在すべての事象からみて分かっていることが4%だろうと1%だろうと0.01%だろうと「科学」以上に成功しているものはないというのが私の意見です。だから「科学」を使うべきである、と。
まだまだ説明できないことはたくさんあるし、完全とは言い難いし、科学的手続きでは見落としてしまうものが多いかもしれないということもすべて理解した上での主張です。
現在の知識体系では「AをしたらBが起こった。だからAはBの原因である」というレベルの認識では「足りない」のです。だから「科学」がいいと考えています。たぶん、cecilさんの
>しかし宇宙も地球も(中略)まず“理解”することそれから“解釈”を合理的論理という科学的思考過程で検証する方法でしか納得のいく結論は導けないでしょう。
という文章から「科学は不適であるのかしら」という私の疑問が想起されています。そして、やはりこの文章を見るとそう思わずにはいられません。
私は「科学」が良くないのなら「科学」には拘りません。
いえ、それでは語弊があります。「科学」よりも優れた方法があり、その方法を取ることでみなさんを納得させることができるというのならすぐにでもその方法を採ります。

たぶん、フィルターは私とcecilさんのそれぞれの頭の中に設定されています。
私の「cecilさんに対する印象(cecilさん像)」とcecilさんの「私に対する印象(haresora像)」です。このフィルタははある程度機能しますが、フィルタ越しに見ると間違えることがあります。おそらく二人とも「相手の言ってないところまで想像して(あるいは行間を読んで)」書いている部分がまったくすれ違っています。


弓の話について、私は弓道をしたことがないので同じものとして語ることは不適かもしれませんが、書道で、あるいは実験でも同じようなことを感じたことがあります。
私は15年ほど書道を習っていました。
線と線の間隔とか長さ、偏と旁のバランスなど考えてゲシュタルト崩壊を起こして「こんな文字だっけ?」と思うほど悩んだこともあります。しかもそういうときほどあまり考えないで「感覚で」書いたときの方が上手く書けていたりします。そういうときほど「計算ではないんだな」と考えることがありますが、上手く書くためには当然身につけておく技術があります。
書き始めの筆の入れ方、止め方、はね方、はらい方などの基本的な技術や楷書、行書、草書などでの形の違いなどです。
実験でもプロトコルがあり、材料もある。でも実際に何度もやってみないとわからないことがあります。そしてそれを言葉で教えるのはとても難しいのです。自分でも「なぜそうするといいのか」はわからないけど「そうすると上手くいく」ということが「体験的」にわかっている。
でもやっぱり最低限必要な手法があり、そこを変えてしまうとその実験は成り立たなくなってしまうわけです。
この必要最低限な技術だったり手法だったりを「科学」としているわけで、その上で「体験的」な部分があることを許容しています。ではこの「体験的」な部分を「科学的」に私がどうしているかというと、「一見合理的な」説明をしたりプロトコルには明記しなかったりします(もちろん自分が教えるときは言います)。論文ではどうするのかというとありのまま(行った手続き)を書きます。そしてなぜそれが必要なのかはわからないが必要であるといいます。
これは一見科学的ではないように見えますが科学的な手続きです。
なぜならばその方法で「再現性」を確認しているからです。ただしその方法が間違っている場合もあります。でも未来に修正されたとしても今はこの方法で上手く行った、そういうことが科学では五万とあります。
私はそういうところは認めています。そしてここは私の問題にしているポイントではありません。


最後に、私が「理解する」ための手続きには「知る」「調べる」「疑う」の作業が必須です。「疑う」ことを諦めてしまったら私は説明のつかない現象どころか説明のつく現象すらも「理解」できなくなります。
でも疑うことと理解を拒むことは同義ではありません。
ある情報を「知った」から「調べて」みた。そうしたらなんとも「怪しい」だからこの情報は信用できないなと思うことはあっても「理解」できないと思うことはありません。むしろ信用できるかどうか判断するためには「理解」していなければいけません。
私は「理解を拒む故の否定」だけはやりたくありません。
しかし理解できないから疑問を投げかけることはあります。今の状況です。


引き続き本日(書いているうちに16日になってしまいましたが)もらったコメントに対してお返事いたします。
でももしかしたら火曜日までお待たせするかもしれません。お待たせして申し訳ありません。
【2008/11/16 00:58】
テーマ5についての対話1-2
早速推薦図書を読んで頂いているとのことでありがとうございます。

ある文献を推奨するということは、その文献の良否がそのまま推薦者の評価にもつながるので、ある意味冒険ではありますが、この本は今まで読んだ文献の中では最もバランスが良く、そしてharesora38さんの疑問の多くに答える内容であると思い推薦しました。

この内容の多くはテーマ5に係わるものであり、もしこの内容をメールのやり取りで行おうとすると、途中で枝葉末節的部分で膠着状態になったり、本題から脱線したりと1年や2年は係ってしまったことでしょう。

またオカルト・反オカルト両サイドによる情報が共にいかにガラクタ同然であるかが分かっていただけるでしょう。

結局大槻教授のような頭ごなしの否定派はもちろん、肯定派であっても果たしてどれだけ優良な知識を持っているかははなはだ疑問です。
それが“肯定派”内でさえ説明がバラバラに見える原因の一つでもあります。

またそれぞれがそれぞれの情報源、例えば信じている宗教的教義や個人的体験からの個人的解釈(主観的な現象ゆえにやむを得ないですが)など
をそれぞれが主観的に信じているのでその全体的合意は全宗教が平和共存出来ないのと同じ理由から不可能でしょう。
しかし、優良な情報源に基づいたものであっても科学主義的に一つの現象に統一的な一つの解釈だけを求めようと考えることもまた、3次元世界的解釈方法による限界でもあります。
かつて異次元世界の事象を理解することが、その観測者の本来所属する次元の物理の常識からは不可能であることを思考実験で示したように、異次元の世界の物理が係わる事象を我々の常識や通念で解釈しようとすると、どうしても同じ事象や現象はこの世には存在し無いため各個人の主観で説明するしか方法がなく、結果的に同じ事象を観察してもその表現は一見バラバラに見えるのです。
例えば地球儀の赤道の一点からスタートするといつの間にか同じ地点に戻ってくるということを、ある人は気が付くといつの間にか同じ場所に戻っていると言い、ある人はいつの間にか道に迷って元の場所に戻ってしまうと言い、ある人は一定間隔で全く同じ風景が繰り返されると表現するといった具合です。
そのため多くの事例を集めてジグソーパズルのように一つ一つの事実関係を見極めてパーツをはめ込んで行き、それらの事象・事例全体で相互にクロスチェックを行いつつ、一つの世界観を組み上げるしか全体像を理解する方法はないのです。
もちろん本当に言い訳のための追加もあるでしょうが、これがアドホックな仮説の追加と見なされる原因でもあります。
実際には一見別な説明の様でいて実は同じ事象の別な側面を説明しているということです。
しかも、異次元の物理事象が関係していれば我々の合理的解釈と矛盾することさえむしろ当然であり、現行科学絶対の唯物論者には異次元のような概念が始めから受け入れられないので、エンドレスの議論になるわけです。

この様にそれらの一見バラバラに見える解釈を統括するより全体的な法則を見いだすまでには相当な時間が必要となるのです。
cecil_scott_forester 2008/11/15(Sat)21:51:49 編集
Re:テーマ5についての対話1-2
いちおう書いてみましたが思いのほか脇道にそれてしまったので今のところ返答は出しません。

エリザベス・L・メイヤーに関して。
実は彼女の本は「もったいない」と思うのです。
彼女がこれから研究を続けられないのは非常に残念でなりません。
一つ一つ噛み砕くように読んでいる代わりにまだ「マクモニーグル」までたどり着いていません(興味が超常現象の他にもあるのも関係しています)。
しかしAmazonのレビューだったら今の時点で☆を4~4.5つけると思います。
これ以上は最後まで読まないと言えませんが(読後には感想が変わっていることもあるので)良書であるとは言っておきます。
【2008/11/19 23:27】
返信について
返信機能が議論をする上でわかりやすそうだったので使ってみたのですが、1コメントにつき1返信しかできません(よく考えてみたら当たり前ですね)。
そこで、別の(私の)コメントにも返信がついていますが、Tabelで囲ってあるのはすべて私の発現でありcecilさんへの返信にしています。
両者とも長文なので返信機能を使うことで発言を見分けやすくできるのではないかと考えます。
また、私が地の分(返信以外)で書くときは文字色を変更しておきます。

今までのコメントもこれからのコメントもできる限りこの形にしようと思っていますのでよろしくお願いします。
むいみ 2008/11/16(Sun)01:04:58 編集
新たに思い至ったこと
話を戻して申し訳ないですが「根拠(科学的)」と「主張(仮説)」の間に飛躍がありませんか?
という質問でまた新たに思い至ったことがあるので述べておきます。

haresora38さんは論文や小論文を書くときに“結論”を導くには“理由(根拠)”が明示されていなければならず、根拠は“事実”(科学では実験データ)によって支えられていなければならないということを大学ではいやと言うほど叩き込まれたのではないかと思います。

従って仮説を立てる場合文章の構成は《その様な構造でなければならない》と教えられていると思います。

従って仮説・仮定と言えば自動的に“根拠”とそれを支える“事実”という概念が立ち上がることとおもいますが、それはargumentを書くならば守るべき原則ではあっても、私は知恵袋においては始めからargumentとして書いている訳ではなく、回答そのものも論文として書いている訳でもないのでその様な形式は踏んでいませんし、質問者もそこまでのものを要求しているわけではありません。

仮説そのものは根拠の明示抜きでいきなり掲げられており、もちろん文面上何らの事実によっても支えられていないため、haresoraさんの身に付いている仮説の提示のやり方からすると“飛躍”していると思われるのではないかと思ったのですがどうでしょう?
つまり仮説そのものではなくその仮説の立て方に違和感があり、そこから私の仮説の立て方に《欠けている》科学的手法かあるいはそれに準じる形での根拠の明示を求めているのではないかと考えると今までの話がようやく理解できる気がしてきました。
そう思って今までのharesoraさんの文章を読み直すと“根拠を真っ向から否定したことはない”という言葉からおそらく「私は始めからそう言っていました!」と言われそうですが、単に仮説が飛躍していると言われると仮説“そのもの”の批判なのだと解釈して、その方向からの回答に終始していました。

そうすると今まで仮説の根拠は一度も提示したことが無いのに未だに“もっともらしい《根拠》がついているために主張の「飛躍」に気づかれにくいのではないか”と言われるのは、仮説には根拠が必ず付属しているという無意識的固定観念から、異次元的世界を我々の次元のイメージで説明するために使っている科学的な喩えを仮説の根拠と思い込んだために「今の時点でそこまでは言えない」ということになるのではないでしょうか。
繰り返しますが主たる仮説に関する限りその根拠は一度も提示したことはなく、ただ単に霊は霊界の存在であり霊界はいわゆる異次元世界のことであると言い切っているだけです。
その異次元世界と我々の世界の実体が干渉出来ないことを“我々の世界の物理に基づく”電波の波長の違いを喩えとして説明していますが、その喩えが説明として都合が良いからと言ってそれを根拠とは見なしていませんし、仮にそれを根拠にするとしても“それだけで”仮説を支えるに足るだけの柱としての強度はほとんど無いことは十二分に理解しています。
今まで“主たる”仮説の根拠は一度も提示していないので「その“根拠”ではそこまでの主張はできない」と言われる意味が分からなかったのですが、それは以上のような思い込みが双方にあったためではないかと思います。
cecil_scott_forester 2008/11/16(Sun)21:26:53 編集
Re:新たに思い至ったこと
返事が長文になりました。
適宜コメントを細切れにしていただいても構いません。


>話を戻して申し訳ないですが「根拠(科学的)」と「主張(仮説)」の間に飛躍がありませんか?
>という質問でまた新たに思い至ったことがあるので述べておきます。
(中略)
>従って仮説を立てる場合文章の構成は《その様な構造でなければならない》と教えられていると思います。

たとえば論文を読んでいると、
実験→結果→考察→結論
と展開させています。この部分には飛躍はありません。
ただしたいていの場合は、今回の結果から「推測すると」Aということが言えたりBということが言えたりするのではないか、っていうかもしかしたらあれもこれも全部わかるかも~と「大きなこと」が、言いかえるなら「飛躍したこと」が書いてあります。
では私はなぜこれを飛躍と言わないかというと、筆者らは「根拠はまだないけどね」と明言しているからです。
大きなことを言うのはありです。なぜなら次に行う研究はその「大きなこと」に向いているのであり、論文を読んだ他の人に対する刺激にもなるからです。
「科学の世界」では「飛躍」は「飛躍」として受け取られます。
そう読んでもらえるような書き方をするからです。
私のcecilさんへの印象は
1.仮説に飛躍がある
2.しかし飛躍があるようには書いていない
3.そして飛躍であるとは気付きにくい
です。

>仮説そのものは根拠の明示抜きでいきなり掲げられており、もちろん文面上何らの事実によっても支えられていない
ええと「主張(内容)の確かさ」という点ではどうお考えでしょうか。
私が拘っているのは最初から今まで(ほぼ)その一点です。
そして私は「確かではない主張(信憑性の低い主張)はしてはいけない」とは言っていません。
「証明されたこと」と「未証明の仮説」を同列に並べてはいけません。
いえ、いけないと「私は」考えています。
知恵袋というところは議論をする場ではなくQuestionに対してAnswerを与える場です(基本的に)。
そのAnswerに何を言おうと自由です。ただし「どの程度確かな情報であるか」という情報を与えてあげるべきだと考えています。

>仮説には根拠が必ず付属している(べきという固定観念)
根拠が付随している方が確かに望ましいのですが、実はそうも思っていません。
すぐ上でもまったく同じことを述べていますが、仮説の「確かさ」のレベルに応じて説明の仕方を変えるべきだと思っています。
「どこまでがわかっているのか」
これは非常に大事なことです。
オカルトならば言わなくてもいいでしょうか?私はそうは思いません。
どんな分野でも「科学的な態度で臨む」のなら「どこまでわかっているか」というのは非常に重要なことです。私は質問者に対して「知ってほしい」「自ら考えてほしい」と考えているのでなおのことそうします。

>異次元的世界を我々の次元のイメージで説明するために使っている科学的な喩えを仮説の根拠と思い込んだ
いいえ違います。

>“我々の世界の物理に基づく”電波の波長の違いを喩えとして説明していますが、その喩えが説明として都合が良いから
私はこの部分について「一切」触れていません。
この部分はcecilさんの提出した仮説に対する「説明」だと思っています。
仮説自体が飛躍していると言っているのだから説明が飛躍していようが例え話になっていようがそこに大きな意味はないのです。

科学的な喩え←触れてません(聞きたいですが)
―――――――――――――――――――
仮説←飛躍しているのではないかと言いました
――――――――――――――――――
根拠←否定したことはありません


たとえば、元の質問に対するcecilさんの回答から引用して「具体的に」お話ししましょう。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1320076238
コメント欄でのリンクの貼り方がわかりません。
cecilさんが10月23日に回答を行い私が難癖をつけた質問です。

A(根拠):最新の物理理論では宇宙は多重次元構造であり異次元世界が3次元世界に重なる様に存在しているのではないかという説が有力視されています。
B(仮説):霊が存在しているのは異次元であり一見同一の空間に存在している様に見えても文字通りこの世の存在ではないからです。
(AであるならばBが成り立ちうる)この理論は霊界の世界観とも完全に一致しています。

私はこの一点を指してAの根拠を元にBというのは「飛躍」である、と言っています。
AならばBであることに「矛盾はない」が、「Aであることが確認されてもBだとは言えない」と私は言っています。
おそらく今回問題になるとしたらAの部分ですね。

「cecilさんがAを根拠と見なしていなかった場合」

です。しかしAでないのならばBの話は荒唐無稽な話になりますね。
だから『cecilさんが「AならばB」という理由は何だろう?』というのが私の疑問です。そしてその答えは以前にもらったはずです。
理論物理学ではこれも「科学的仮説と見なす」と。
そしてそのことについて私は納得はできないけどおっしゃっていることは理解したつもりでいました。
しかしどうやらこの理解では違うようです。

cecilさんが何を根拠としてBと主張しているのかをお聞かせ願えますか?
それが分かれば私が理解する上で大きな助けになり、議論もスムーズに進むかもしれません。
【2008/11/18 17:25】
霊は異次元の存在であることについて
以下は少し違う内容になっているのでコメントを独立させます。

>霊は霊界の存在であり霊界はいわゆる異次元世界のことであると言い切っているだけ
これはいつも不思議に思っています。
言いきれるほどの根拠はあるのでしょうか?
以前に「三次元(この世界)に干渉できるのならば三次元の物理で捕捉することができるはずだ」と言っている人がいましたね。
私もこれと同意見です。
「見える」ということは「私たち三次元の存在」が「異次元の存在(霊)」に「干渉している」ということです。
もしも異次元があり、それが5次元以上の高次元であるのならば正直、理解するのも難しいしその世界の物理法則もまったく変わってくることも考えられます。しかし霊と呼ばれる存在は私たち三次元世界に干渉しているのであり、私たちも「見る」という行為でそれらに干渉しています。
私たちが「見られる」ということは霊と呼ばれるものは三次元世界に「(一時であっても)存在している」のでありそれをとらえることは可能ではないのか?と私は考えています。
そして、体験談を聞いていると「再現性の取れない状況」も存在しますが「何かの目的意識があり同じ場所・同じ条件で現れる霊」も存在しています。たとえばポルターガイストなんかはそのもっとも典型的な例だと考えます。
ここで言えるのは

1.ポルターガイストは霊の起こす現象ではない
2.ポルターガイストを起こす霊は異次元の存在ではない
3.ポルターガイストを起こす霊は異次元の存在なので三次元の科学では検証できない

のどれかだと考えられます。そしてcecilさんの言っていることは「3」だと言えます。これには激しく違和感を覚えます。

三次元世界の人間は「現象を確認できている」のに「三次元の科学では検証できない」のか?

この疑問に対する答えも仮説も明示されていないと思います。
cecilさんならこの疑問についてどうお考えになりますか?
むいみ 2008/11/18(Tue)18:03:49 編集
Re:霊は異次元の存在であることについて
あ…と、もしかしたらこういうことかもしれません。

4.異次元に干渉できる人間が稀に存在する

しかしこれもその人間が「三次元の存在である」限り科学的アプローチは出来得ると考えられます。
できないとするならどのような理由でできないと考えられますか?
【2008/11/18 18:08】
Re:新たに思い至ったことについて
“たとえば論文を読んでいると、~ 私のcecilさんへの印象は ”

この部分の文面でもやはり論文という言葉が繰り返されているのですが、どうしても私の知恵袋上の回答に論文に対する“査読”的解釈や批判を加え、仮説に対する《根拠》と思われるものを探し出して、その《根拠》からはそんなことは言えない“飛躍”している!と言われ続けているのですが、私が論文として発表した文章であれば幾らでもそのような批判や指摘を受けても全く構いません。
しかし知恵袋上での私の発言は私の個人的信条と学んだ知識に基づく“主観による意見”を述べているのであり、論文に必要とされる結論、根拠、事例・事実といった構造はもともと備えていないのであって、そのような文章を“論文”に対する様に“査読”をすれば様々な欠陥があるでしょう。
というより論文としては成立していないと見なされるものでしょう。
しかし本来が主観による散文(韻や文字数あるいは論文形式などの規則制限のない通常の文章。これを文学的表現あるいは文章表現上のテクニックといっていました)であるものに対して“査読”的分析を加えて批判することはそもそもその対象としてはカテゴリーエラーであり不適切であると言わんとしているのです。

繰り返しますが私は論文を書いたわけではありません。
論文は事象・事実を“客観”で論述することが絶対原則の文章なのであって、“主観”的な文章は論文にはなり得ないのです。

またharesoraさんが“個人的主観”で
・「証明されたこと」と「未証明の仮説」を同列に並べてはいけません。
・そのAnswerに何を言おうと自由です。ただし「どの程度確かな情報であるか」という情報を与えてあげるべきだと考えています。
と考えるていることは自由であり、その様に“ご自身が”努力されるならば私もそれを前面的に支持しますし、立派な心がけだと思います。
が、それを他の回答者に強要することは知恵袋上ではできないことであり、またその様に知恵袋上で主張してもその姿勢は評価されても主張そのものは支持されないでしょう。
もし回答に論文的厳密さや記述の正確さを求めたならばおそらくその時点で回答する意欲を失う回答者が大半でしょうし、仮に回答を寄せても基本的な“査読”に合格できる論文は更に少ないものになるでしょう。
つまりそれでは知恵袋は成り立ちません。
私でさえおそらく参加することは特にあのカテゴリーでは出来なくなります。
それは私に水準以上の論文が書けないからではなく、“科学によらない根拠”から結論をそれなりの強度で明らかにすることはとても2000字では納まらないからです。

今回根拠とされている部分も根拠ではなく仮説全体の一部です。
つまり「霊界とは何やら不可思議な曖昧模糊たる世界ではなく、我々の世界同様現実の世界だと考えるとするとそれは物理理論で言われている異次元世界のことではないだろうか」というのが私の主観的結論であるということです。
ちょうど以下の回答にその思考過程を詳しく述べましたのでご参照下さい。
私が“現行”科学と単に科学と言っている場合の違いが分かると思います。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1120667161

論文の形式は科学の発展と表裏一体であり、その形式は科学的思考というものに適したものです。
だからこそ科学の発表は論文によってなされています。
しかし今私が根拠や論証を求められている事象は科学が通常対象とする事象とは全く異なる世界に属するものであり、その事象を記述するには科学やその記述形式である論文は不向きであるということです。

なお、だからといって私が質問に対してその場の思いつきで適当な意見を述べていないことはその主張が基本的には全く同じ一貫性を持っていることでもご理解いただけるでしょう。
しかもどの様な切り口からでもその世界観には統一性を持って説明しています。

それはその確信的発言の背景に何らかの根拠があり、それを支える事例や事実があるであろうことを予測させるものなのでしょう。
だからこそharesoraさんの突っ込みを受けているのだと思っています。

ところでここで一つ告白しておくことがあります。
実はharesoraさんの“科学の範疇ではなくても蓋然性のある根拠”という精一杯の妥協的態度にも係わらず、私はその言葉をそのまま信じることが出来ないのです。

今までの対話や今回の互いに引っかかっている“根拠”や“論文”問題から見ても、私の側からもharesoraさんの印象を述べさせてもらえば、“徹底した科学主義者”というのが偽らざる印象なのです。

ちなみにharesoraさんは科学主義ではあっても科学至上主義者だとは思っていません。
その二者は言葉は似ていますが意味合いは全く違っています。
科学至上主義者とは科学の範疇に入らないものは総て頭から全否定する価値観の狭い人間のことです。

今までの対話を振り返ってみて“科学の範疇ではなくても蓋然性のある根拠”とは、“合理的な納得が出来る”という意味であることは容易に推測され、結局は“科学的”という言葉の言い換えであり、その意味で言い換えるならば“科学的に実証されていなくても科学的思考・手法でその結論に至れれば”という意味であろうということです。
つまり西洋的合理主義自体は絶対に捨てられないという、根本的信条に反しなければということであり、目下は科学が最も事象の解釈の物差しとして適切であるという信念に対立しなければという意味でと解釈しています。

そこでその金科玉条とする価値観を私からの示唆によってではなく“自ら自然に”その価値観を疑うようになれないか、少なくとも全く別な物差しもあり得るということを自分自身の考えで納得して受け入れてもらえるための突破口を作ろうと様々な“科学的事実”を事例にあげて科学の不完全さ未熟さと異次元世界の物理を想定した場合の物理の限界を繰り返し述べてきたということです。
納得するとは教えられてできることではありません。
自分の理性がそう判断して受け入れることが真の納得というものです。

しかしこの手法は“北風と太陽”の寓話同様全く私の意図に反して科学に対する私の態度に不信感を募らせる結果になってしまいました。
何しろいかに科学に限界があるかという点にばかりその主張が偏っていたからです。

そこで今までとは別の角度から同じテーマを知恵袋に回答してみました。

この回答のポイントは現行科学の限界はともかくとして、余剰次元の物理をも視野にいれたいわば多次元科学全体の基本的構成要素としては全面的に現行科学を肯定しているという点です。

私が“科学的”表現を使用している部分では総て現行科学の知識に基づいているのは、私の世界観がオカルトではなく、科学と共存可能な現実的テーマであることを主張するためです。

そもそも私が知恵袋のオカルトカテゴリーで回答を始めた動機がそこにあります。

つまり霊や霊界というテーマをオカルトとしてではなく、まるで当然のごとく現実的な存在として語るということです。
その様に語ること自体に意味があるのです。

従ってオカルトと見なされる説をそのまま主張の根拠とすることは出来ないので現行科学の言葉のみで説明をしています。
そうでなければ否定派に限らず閲覧している中間派にも全く説得力を失います。
と同時に主張の根拠そのものはその提示が簡単ではないことが最大の理由ではありますが、仮にそれを説得力の不足した中途半端な形で提示することで再びその主張全体がオカルトと見なされることを避けるため意識的に提示していないのです。
それゆえ《根拠》は一度も提示したことがないと言っているのです。
その代わり参考文献や出典を明示する様に努力していますが、文字制限のため総ての回答でその様にすることはできません。

また文章の構造はまず否定派の論拠を崩す部分は徹底的に現行科学に基づいて説明し、主張そのものも現行科学の延長線上に仮定し得ることを、現時点では証明されていない理論ではあっても少なくとも実証試験には漕ぎ着けた現行科学の理論を基に示唆しています。

つまりオカルトとされている事象と現行科学との橋渡しを、可能な限り現行科学の範疇で説明しようとしているのです。

それは今日まで科学と非科学として鉄のカーテンが引かれていた境界線の撤廃であり、それを肯定側から見ても否定側から見ても飛躍であると思われることはやむを得ないことでしょう。
それでも今使える限りの現行科学の知識を用いてそのギャップを可能な限り埋めようと努力しているということです。

すなわちオカルトを科学の言葉で巧みに言いくるめようとしているのではなく、オカルトと見なされていた事象を科学的に説明し得ることを示そうとしているのです。

また余りに無知な否定派の回答、肯定派であっても無茶苦茶な内容、全くの個人的解釈、既成宗教や宗派の教義も私から見ると全く的外れであり、その解釈のバラバラさがまた否定派の攻撃の的になっている状況に対して、その結論自体は肯定派の立場ではあっても正統的な論理と一貫した主張をすること自体が否定派に対するデモンストレーションであり具体的広報手段と見なしているのです。
ですからうかつな否定派に突っ込まれるのは、私にとっては良いお客さんが釣れたということです。

従ってharesoraさんにそんなのを相手にする意味はないと言われましたが、それがむしろ私の回答動機そのものなのです。
そのため回答は特に唯物論者、科学至上主義者、科学万能主義者などを意識して書かれています。

しかし、その様な動機を背景に持っていたとしても基本的には質問に対しては最大限真摯に回答しており、特に悩み苦しみを持って相談している質問者にはその様な背景は全く考慮せずに私の理解している限りの知識を基に真剣に回答しています。

従ってどちらの場合の回答であっても、決していい加減に回答しているものはなく、むしろ可能な限り出典を明らかにし、自身でも本気で知りたければ自分自身で確認出来るように配慮しています。
その点でもharesoraさんの回答姿勢とはそれ程違っているものではないと思います。
ただし、その回答分野に科学や論文形式が適切かどうかの違いがあると思います。
haresoraさんがその様に回答できるのは“科学的な内容の回答”だからではないでしょうか。

話を上記の回答に戻します。

霊や霊界が実在する世界ならばそれはもはやオカルトではなく自然の摂理に含まれた現実的存在でなければならず、そうであれば現行科学の否定や大幅な修正を行わずにその世界を説明出来なければなりません。

そこで私自身が想到し、また既にスピリチュアリズムにおいても1913年(相対性理論が学会の大物古典物理学者達からオカルト扱いされて猛烈な攻撃をされていた時期)には霊界とは異次元世界のことであると説明していました。

しかも物質の本質は波動であるという量子力学の発見について、それこそが物質のみならず宇宙を理解する本質であることも述べられていますが、その頃は量子力学的解釈はアインシュタインからでさえ徹底的に否定されていた理論であり、今日のようにしっかりと真実として認識される以前のことであり、エーテル説同様科学の歴史から葬り去られる可能性もあった状況であったことを思うと敢えてその様な解釈を真実として宣言することはその後のスピリチュアリズムの信用に係わる危険な賭であったと思います。
しかしそれはもはや応用科学では無くてはならない理論であり、その事実が強力に理論を支えています。


長くなったのでとりあえず今回はここまでにします。
cecil_scott_forester 2008/11/20(Thu)00:29:03 編集
Re:Re:新たに思い至ったことについて
私が言っている「正確さ」というのは「内容を完璧に説明しなければいけない」ということではありません。
その仮説が「現在、立証という確かさからするとどのような位置にいるのかを明言する必要がある」といっているのです。
仮説の「確からしさ」にはほとんど妄想なものからほぼ証明されているものまであります。そのどの位置にあるか、どの程度の認知度であるかを知らせないでもっともらしく(断定的に)書くのは誤解を与えませんか?
たとえば私が「霊などない」と断定したらcecilさんは「そんなことは言えない」とおっしゃるでしょう?それと同じことを私は言っているだけです。そんなにおかしいことでしょうか?

これ以降はコメントをしっかり読んでから返答いたしますが、cecilさんは私が厳しいものを求めていると思いすぎです。
私はそんなに厳しいものを求めていません。

追記(11/20 1:47):
>それはその確信的発言の背景に何らかの根拠があり、それを支える事例や事実があるであろうことを予測させるものなのでしょう。
>だからこそharesoraさんの突っ込みを受けているのだと思っています。
いちおうその通りです。
cecilさんのおっしゃる仮説はとても魅力的であり、現行の科学と矛盾しないようにみえます。そしてなにより「話ができそうだ」という印象がありました。
ここまで突っ込んでも怒りもせずに懇切丁寧に説明してくれる人はあんまりいません。(懐疑派のみなさんは議論がお好きなようですが)

>haresoraさんの印象を述べさせてもらえば、“徹底した科学主義者”というのが偽らざる印象なのです。
私が科学主義者に見えようがと科学至上主義者に見えようがと私の主張に変わりはありません。人物にレッテルを貼る行為は避けるべきです。その後の議論に支障を来します。
「私のcecilさんへの印象は」等、私が印象を語っているときはその印象が「主張」に向けられていると思います。cecilさんが心の底から超常現象を信じていようと私が心の底から科学至上主義でも「人物の社会的立場(性質)と主張は分けて考えるべき」なのです。
cecilさんが科学的な態度で臨む限り私も科学的な態度で臨みます。
それがこの議論に最も必要なことのはずです。


>目下は科学が最も事象の解釈の物差しとして適切であるという信念に対立しなければ
>少なくとも全く別な物差しもあり得る
ええと、これについては以前にお話ししましたね。
「科学が不適であるならば使うべき物差しはなんですか?」と。
それに対して
>この問題を解決するに最も適する物差しは“科学”です。
とおっしゃっていましたね。
これについてもう少し詳しい説明をお願いします。


論文のような精確さは求めていないと言いましたが「科学的な仮説」にはそれなりの「形式」が求められます。
私が言いたいのはその「形式」と「正確さ」です。
これは「科学の信頼性」や「科学の限界」とは関係のない話ですがとても重要だと考えます。

追記(11/20 14:50)
>そこで私自身が想到し、また既にスピリチュアリズムにおいても1913年(相対性理論が学会の大物古典物理学者達からオカルト扱いされて猛烈な攻撃をされていた時期)には霊界とは異次元世界のことであると説明していました。
たぶんそのようなことをおっしゃっているのではないと思いますがいちおう言っておきます。
私が言っている「新奇性」とは単純に出された年代が新しいか古いかではありません。
100年前に出されようと200年前に出されようと現時点(あるいは立証された時点)において「新奇性」を有していたか、が論文としては最も高い価値基準を有します。
そして1913年に報告されている「霊界とは異次元世界のことである」という仮説がその当時からずっと立証されていないことは理解できました。
が、論文の話をしているわけではない(というかそっちにそれると議論が分散する)のであまり触れたくありませんが、これだけはいちおう言っておきます。
【2008/11/20 14:54】
根拠について
どうもいろいろ言葉を尽くすほど肝心なところが伝わらない様なので、今回は根拠という点のみに絞ってみましょう。

まず“根拠”なるものは私の回答上一度も述べられていないことそしてその理由を述べています。
この点にこだわるのは誤った前提から進めては議論が噛み合わず混乱するからで、本格的に対話を進める前の当然の手続きでしょう。
誤解があればそれが本質に係わる重要性に応じて事前に解決するか、出来る限り早急に改善されるべきですから。

何しろ根拠は意識的に述べていないことは本人が意識的にしていたので間違いなく、そうするとどこかに根拠と勘違いされている部分があるわけで、それはテーマ5を進める上で重大な誤解だと思ったわけです。
また書いていない以上存在しないはずの根拠を勝手にそう思い込んでしまうのは論文作成の時に徹底的に指導された体験によっていわば「論文病」に係っているのではないかと私も勝手に思い込んでそれを“新たに思い至った”ということです。

ということで根拠と思われていた部分も主張の一部であることはご理解ただけたでしょうか?
また主観の積み重ねで成り立っている根拠は単に一つや二つ述べてみても全く客観的証拠にはならないため(いわゆる帰納法的論証では少ない事例から一般化出来ない)科学的根拠のようには提示が出来ないこと、まさにそれは英国国教会の報告書で述べられている様に“偶発的であり、時たましか起きず、そして極めて独自性が強い。つまり全く同じものをもう一度というわけには行かないし、従って統計的分析も出来ない。”性質の事象を根拠としなければならないからです。
ということは狭い意味での科学では実証は困難(個別的には不可能ではないが再現性が確保できないので科学的に実証できたとは宣言できない)であることを意味しているのです。

しかし私が広義の“科学”としている“科学的思考過程”によって論理的にその結論が成り立つならば、実験による証明がなくとも、多くの主観的事例から
でも帰納法的一般化が成り立つはずであり、(事実その何万例という事例が集まったことにより、今は臨死体験自体が存在するかしないかという議論はなくなり、単なる幻覚ではなくその一定のパターンの存在から何らかの統一的合理的な科学的説明が必要な現象であることまでは認められる様になりました。あとはその体験が“実体験”なのか“科学的説明がつく体験”なのかで解釈が分かれています。)それがまさに私の根拠となっているということです。

その点で証明されているものとされていないものを並列にして《誤解》を招いているというのは、すでに私の主張が間違っているという先入観のバイアスがかかっているからではないでしょうか?

回答は質問に対する私個人の確信に基づく主観的意見です。

そもそもの成り立ちが主観的体験によって形成されているのでそれを否定されればいわゆる全否定と同じことになります。

従って知恵袋上でもし間違った意見と思えば、ご自身が正しいと思っている意見を述べれば良く、最後はそれら総ての意見を見て判断を下すのは質問者です。

その際不幸にして本当に誤った知識を質問者が選択したとしても、Yahoo!知恵袋ガイドラインにあるとおり“それらの答えは回答される方の知識レベルや思想、考え方などに左右されます。どのような質問をし、他の参加者から受けとった回答をどのように理解し、評価するかといったことはすべてご利用になる方々の責任において行われます。それらの回答内容がすべて絶対的に正しいとは限らないことを十分認識して、本サービスを利用してください。 ”
ということであり、正直いささか余計なお世話ではないかと思います。
もし“明らかに”間違った見解だと思うならばご自身の文章で訂正をすれば良いのではないでしょうか?
そしてもしその意見が選択されなかったとすれば、第一に質問者の自己責任であり、第二に説得力ある回答を書けなかった回答者の問題です。

なお、私個人が自らの回答に対する「主張(内容)の確かさ」という点でどう考えているかと問われるならば「私が確かな内容と確信している知識を誠実に回答している」と答えます。
それが科学的かどうかと問われれば私が科学的と考えている“科学的思考過程”に重大な錯誤がなければ科学的回答であるとお答えします。
いずれにしろこれは昔から行われてきた狭義の科学と信仰間の事実というものに対する認識の違いとほぼ同一の問題です。
信仰ではキリストの奇跡は事実と信じていますが、科学ではそれは有り得ないと否定します。
しかし実際は本当にあったことかもしれませんし、やはり単なる伝説でしかないかもしれません。
真相はその当時の本人にしか分からない主観的体験です。

問題は信仰イコール、オカルトという決めつけであり、もし超常的現象が事実とすれば現行科学が説明できる世界観が総てではないという証拠になるのです。
そして私は現行科学では説明がつかない事実の体験があります。
ここでその体験を《根拠》の一つとして《参考までに》紹介しておきます。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1011141800

この体験自体は異次元仮説の根拠そのものにはなりませんが、この様なさまざまな体験や知識の積み重ねがジグソーパズルのように一つの世界観を形成しているのです。
cecil_scott_forester 2008/11/20(Thu)22:23:48 編集
Re:根拠について
>言葉を尽くすほど肝心なところが伝わらない
それではいろいろな文学的修飾を外していただけると助かります。
私はそれほど学のある方ではないので長文読解は非常に時間を要します。
箇条書きでも構いませんのでストレートに書いていただけると非常にありがたいです。

>また書いていない以上存在しないはずの根拠を勝手にそう思い込んでしまうのは論文作成の時に徹底的に指導された体験によっていわば「論文病」に係っているのではないかと私も勝手に思い込んでそれを“新たに思い至った”ということです。
というか、議論をする上で「主張」は必要です。
そして同様に「根拠」も必要ですよね。
誤解される前に書いておきます。この根拠というのはevidenceではなくgroundでありbaseです。
「論文病」以前に「根拠を示さない議論」というのに出会ったことがなかったので私もびっくりしています。そうですね、根拠を示さない議論は初めてでした。そういう意味では私に「勝手な思い込み」があったのでしょう。

ちなみに、いい加減論文から離れてもらってもいいでしょうか?
私はSecondで論文も通りましたが執筆は一切行っていません。私が行ったのはデータの処理と実際の実験です。確かにReviewerの要求に応えるために(2回差し戻されましたので)かなり精確な実験を心掛けましたが「徹底的に指導された」経験は一切ありません。
私の知識は私が調べて構築しているものです。


>ということで根拠と思われていた部分も主張の一部であることはご理解ただけたでしょうか?
>また主観の積み重ねで(中略)狭い意味での科学では実証は困難(個別的には不可能ではないが再現性が確保できないので科学的に実証できたとは宣言できない)であることを意味しているのです。
あの、この場合は「体験談に代表される主観的な証言を基にしている」ではいけないのですか?それともこれすらも根拠ではないとおっしゃるのでしょうか。
最初の方で「スタートが主観でも構わない」と私は言ったはずです。
ただし体験談と仮説を結びつけるのは強引で、仮説が成り立つなら体験談を矛盾なく説明できる、とは言えても根拠にはできません。


>すでに私の主張が間違っているという先入観のバイアスがかかっているからではないでしょうか?
だったらこんなに何万字も書いたりしません。


>回答は質問に対する私個人の確信に基づく主観的意見です。
ならば「科学的」に見せかけてはいけません。

>それが科学的かどうかと問われれば私が科学的と考えている“科学的思考過程”に重大な錯誤がなければ科学的回答であるとお答えします。
「科学的」には一定の基準(定義)があり「『私が』科学的と考えている“科学的思考過程”」ではいけません。だからこそ「用語のすり合わせ」が必要になるのです。

>信仰イコール、オカルト
いいえ、違います。オカルトを信仰する人もいますが、信仰のすべてがオカルトになることはありません。
ここについても心配は御無用です。
宗教的信仰や科学の範疇ではないオカルトには私は寛容(不干渉)を貫きます。実際には「全く触れない」なんてものはないんですけど。


知恵袋について。
>もし“明らかに”間違った見解だと思うならばご自身の文章で訂正をすれば良いのではないでしょうか?
明らかな間違いでなければ突っ込んではいけませんか?
江原氏のスピリチュアルはグレーゾーンだから正しいか間違っているかわかりません。それに突っ込んではいけないというのがcecilさんのご意見でしょうか。知恵袋には「ほぼ妄想なものからほぼ証明されているもの」が大半です。真っ黒でなければ突っ込んではいけないのですか?
質問して教えを乞う人に「ほぼ妄想のもの」が渡されても「明らかではない」から突っ込むべきではないということでしょうか。
未実証の、壮大な仮説は放っておけ、ということでしょうか。
それができない(以前のコメントに私の動機を書きましたね)から今議論をしているのではありませんか?
その態度は「知恵袋だから」ですか?それとも他の場所(たとえばこのブログ)でも常に同じ態度なのですか?
【2008/11/20 23:45】
根拠の必要性について
cecilさんは相手にわかってもらうために「根拠」を示さないのですか?

私は今までに「見過ごせない(突っ込んでしまう)理由」や「信条」や「cecilさんの主張に感じる違和感」などの根拠を示してきました。
その根拠は科学的手法に基づくものであったり、個人の主観によるものだったりしました。根拠が常に科学的でなければいけないなんてことはありません。
同じようにcecilさんの文章にも根拠はいくつか見られます。
それなのになぜ「もっともわかってほしいこと」に対して根拠を書かないのでしょうか。
理解されたくないのですか?

そんなに私に対する不信感を拭えないのでしたら「科学」という言葉を使うのはやめますか?


あと、あえて根拠を書かないようにしていたのはなぜですか?
むいみ 2008/11/20(Thu)23:54:45 編集
根拠の必要性についてへのお答え
書かないというより書けない事情は既に何度も繰り返し述べています。

“なぜその様にしか対話が進まないのかは、一度”こちら側の立場”から考えて頂ければすぐにその理由が分かります。それは否定派にとっても科学的に否定できるだけの物的、観測的根拠がないのと同じように、肯定派にとってもその点は同じだからです。 水道栓をひねれば直ちに水が出るごとく、あるいは壁のスイッチをつければ一瞬で明かりがつくごとく、それはこれこれの事実から明らかです。と《客観的な自然科学的手法》で検証しうる明快な証拠など存在しません。もし手持ちにそんな決定的な証拠を持っていれば何も出し惜しみなどせず、私などとっくにそれを開示しています。”

“私に水準以上の論文が書けないからではなく、“科学によらない根拠”から結論をそれなりの強度で明らかにすることはとても2000字では納まらないからです。 ”

“私が「科学的」表現を使用している部分では総て現行科学の知識に基づいているのは、私の世界観がオカルトではなく、科学と共存可能な現実的テーマであることを主張するためです。そもそも私が知恵袋のオカルトカテゴリーで回答を始めた動機がそこにあります。~中略~従ってオカルトと見なされる説をそのまま主張の根拠とすることは出来ないので現行科学の言葉のみで説明をしています。
そうでなければ否定派に限らず閲覧している中間派にも全く説得力を失います。
と同時に主張の根拠そのものはその提示が簡単ではないことが最大の理由ではありますが、仮にそれを説得力の不足した中途半端な形で提示することで再びその主張全体がオカルトと見なされることを避けるため意識的に提示していないのです。
それゆえ《根拠》は一度も提示したことがないと言っているのです。
その代わり参考文献や出典を明示する様に努力していますが、文字制限のため総ての回答でその様にすることはできません。 ”

“主観の積み重ねで成り立っている根拠は単に一つや二つ述べてみても全く客観的証拠にはならないため(いわゆる帰納法的論証では少ない事例から一般化出来ない)科学的根拠のようには提示が出来ないこと、まさにそれは英国国教会の報告書で述べられている様に“偶発的であり、時たましか起きず、そして極めて独自性が強い。つまり全く同じものをもう一度というわけには行かないし、従って統計的分析も出来ない。”性質の事象を根拠としなければならないからです。
ということは狭い意味での科学では実証は困難(個別的には不可能ではないが再現性が確保できないので科学的に実証できたとは宣言できない)であることを意味しているのです。 ”

要するに大きく分けて回答内で根拠が明らかにされていない理由は2つあります。
一つは単純に物理的事情。
もう一つはオカルトと見なされている価値観をオカルトとされている事例から説明しても全く説得力が無いからです。


今回の対話の中では根拠はテーマ5内で明らかにしていくことになっています。
従ってこれまでの1~4のテーマではそれに触れていません。

そしてオリジナルの回答と今回の議論とを混同しています。
元々の知恵袋上の回答は質問者さんへの回答であり、もともと議論ではありませんので「根拠を示さない議論」というのには当たらないでしょう。

そして今現在テーマ5に移ろうとしているところですが、未だ誤解、思い込み、行き違いなどを地ならしするための摺り合わせの段階であり、本論そのものには進めていない状況です。

例えば今回の根拠についての件でも、それはテーマ5の議論の方向性を決める重要なキーワードであり、存在しない根拠を放置することは出来ませんでした。
そこで当初から論文ではないので結論を支える根拠は提示されていないということを、上記の様に繰り返し言い続けて来たのですが、それでも根拠という言葉が使われ続けていたため、今回はやむなく強引にその問題に決着をつけさせて頂きました。

結果的には単なる議論のベースでしかなかったとのことでしたが、今までその様な説明は無かったのでその点だけはどうしても解決しなければ、先に進むことは出来ませんでした。
それは根拠という言葉が本議論の焦点であり、最重要キーワードである以上、その言葉にこだわることは当然ですが、この議論においては単にそれだけでは済まない背景があります。
それがどういうことかは根拠に関して本格的に語る段階になれば自ずと分かってくるでしょう。

なお、

“>回答は質問に対する私個人の確信に基づく主観的意見です。
ならば「科学的」に見せかけてはいけません。 ”

についてお答えすると、オリジナルの回答についての文章構成は科学的には否定も肯定も出来ないという結論を導く部分は通常科学の範疇の知識のみを使って論理的に科学的な論証をしているのでその結論はharesoraさんも科学的では無いとは言わないでしょう。

過去回答を引用すると、

“単に科学の適用範囲はほんのわずかである、科学はまだまだ未熟であり万能ではない、科学には限界があると言い切ってお終いにしているのではなく、「科学では否定も肯定もできない」という結論を導くための論証も疑似科学でではなく現行科学の知識のみを用いて論理的に行っているつもりです。
その過程自体は完全に現行科学に準拠しており、すなわち論理全体が現行科学に依存しています。
ゆえに今までその論証過程そのものが批判された覚えはありません。
もしその論証過程が現行科学から飛躍していたら、科学至上主義的否定派に何の説得力もないでしょう。
科学至上主義には現行科学の知識と論理を用いることが最も有効な対抗手段なのです。”
(科学の適用範囲はほんのわずかである。編集日時:2008/11/5 08:10:27 )

と述べています。

それに対して主たる主張は未だ実証はされていなくても実験段階に進んでいる仮説であり、決して疑似科学ではありません。これもオカルト的解釈ではなく科学的解釈が可能であることを実在する理論を基に説明しているのであって、それが飛躍的だと感じたとしてもこれも科学的ではないとは言えないはずです。
もし言えるなら何学の何理論に矛盾するのか科学的にご説明頂かなければなりません。

従ってこの“「科学的」に見せかけてはいけません。”という発言の事実関係の証明をお願いします。
出来なければ撤回を求めます。

次に

“>それが科学的かどうかと問われれば私が科学的と考えている“科学的思考過程”に重大な錯誤がなければ科学的回答であるとお答えします。
「科学的」には一定の基準(定義)があり「『私が』科学的と考えている“科学的思考過程”」ではいけません。だからこそ「用語のすり合わせ」が必要になるのです。 ”

このご発言のうち“「用語のすり合わせ」が必要になるのです。 ”はまさに本題に進む前に是非解決したいと思います。というより今まさにその最中です。

しかし、“「科学的」には一定の基準(定義)があり「『私が』科学的と考えている“科学的思考過程”」ではいけません。”
という部分については、私のこの“私が科学的と考えている“科学的思考過程”という言葉はかなり以前から何度も使ってきている言葉であり、(『第一回目の対話』の結末部より: 私にとって”科学的”とは論理的ということであり、つまり科学的思考に基づく検証手順、実験方法などは私にとってもこの問題を解明するための最も重要なツールです。 2008/10/30(Thu)01:40:00 )

今になって何故急に“いけません”という全否定になるのでしょうか?
しかもお互いの考えを近付けることが摺り合わせであり、相手の考えを全否定して自分の考える価値観を押しつけるのは遺憾です。

しかし、そうは言っても私の考えが著しくその『「科学的」に対する一定の基準(定義)』と異なっていればそれも当然のことと思いこの二日ばかりを割いて文献から確認しました。
ところが科学的ということに対する学問的『定義』は現代科学思想事典などにおいても見つけられませんでした。
その代わり『科学的』について国語辞書では以下のように説明しています。

・旺文社標準国語辞典
 科学的:物事のすじみちがはっきりしているようす。ある決まった約束の中で、だれがためしても正しい結果がでるようす。

・岩波国語辞典
 科学的:科学の方法に合致して合理的・客観的であること。

・新潮国語辞典
 科学的:一定の目的・方法のもとに事件を“系統立てて論証”するさま。

・広辞苑
 科学的:物事を実証的・“論理的”・系統的に考えるさま。
また、思考が事実にもとづき、合理的・原理的に体系づけられているさま。学問的。 

これらの説明にたいして私の考える科学的とは

“私にとって「科学的」とは論理的ということであり、つまり科学的思考に基づく検証手順(思考過程)、実験方法”としています。

両者を比較すればその意味するところの遠近異同は一目瞭然です。

したがってその“一定の基準(定義)”なるものとの摺り合わせを行いたいと思います。
cecil_scott_forester 2008/11/23(Sun)01:44:19 編集
Re:根拠の必要性についてへのお答え
>>“主観の積み重ねで成り立っている根拠は単に一つや二つ述べてみても全く客観的証拠にはならないため

>>誤解される前に書いておきます。この根拠というのはevidenceではなくgroundでありbaseです。
と書いたように客観的証拠を欲しているわけではありません。


ちょっと待ってください。
私は「知恵袋で根拠を示せ」とは言ってません。
これは分けずに議論を続けていた私も悪いのですが、私が言っているのは
・知恵袋では事実に沿った記述の仕方をすべき
・cecilさんの主張の根拠はなんですか
であり、知恵袋におけるcecilさんの主張が蓋然性が高い仮説に見えるので今質問をしています。
しかしその内容は2つに分けられ、前者は「記述の仕方に関する疑問」であり後者は「cecilさんの主張の根拠」です。後者については「私が」「議論の場で」訊いているのであって「知恵袋に書け」と言っているわけではありません。
これを混同してしまったから私の主張がとんでもないものにみえているのではないでしょうか?


>主たる主張は未だ実証はされていなくても実験段階に進んでいる仮説
本当ですか?

>>A(根拠):最新の物理理論では宇宙は多重次元構造であり異次元世界が3次元世界に重なる様に存在しているのではないかという説が有力視されています。
>>B(仮説):霊が存在しているのは異次元であり一見同一の空間に存在している様に見えても文字通りこの世の存在ではないからです。
>>(AであるならばBが成り立ちうる)この理論は霊界の世界観とも完全に一致しています。
Aは実験段階ですね。BはAが成り立っても成り立つものではありませんね。

そしてcecilさんはAもBも仮説であるとおっしゃいました。
仮説の見せかけを大きくしてもその中にはやっぱり根拠とそこから派生する仮説(主張)が存在します。
今回の場合で言うとAが成り立ったら即Bが成り立つわけではありません。
>もし言えるなら何学の何理論に矛盾するのか科学的にご説明頂かなければなりません。
理論に矛盾しなくても「Aが言えてもBが成り立つかはわかりませんね」といっています。確かに否定されるまでは科学的主張であるということもできるかもしれませんが、「実験段階に進んでいる仮説」であるのならBを証明するには何が必要かお答えください。この証明に必要になってくるものはevidenceですが「実験段階に進んでいる」のならば大丈夫でしょう。
cecilさんの主張は「未科学」ではありませんか?そうであるならば「科学」に見せかけてはいけません。
cecilさんの主張の全貌が明らかではない今はまだ私が勘違いしているだけとも科学的であるとも言えません。よって撤回することはまだできません。


ああ、この科学「的」って難しいですね。

「~的」には「~の、~のような、~に関する」などの意味がありますね。
「科学的」という言葉は科学とほぼ同義(科学的≒科学)ですが「科学のような」という意味で使うなら異なってきますね。
科学的方法も科学の方法ではなく科学のような方法だと問題ですね。
cecilさんはご自分の主張は「科学的である」けど「科学ではない」とおっしゃりたいのでしょうか。そうならば私も言葉の使い方をもっと厳密にしなければいけません。
まさかそこでつまっているとは思いませんでした。
それならば一言聞けばよいだけではありませんか?
haresoraはどのような定義で「科学的」を用いているのか、と。
私は科学的と科学は同じ意味で使っています。ただ、語感や接続の関係で的がつくかつかないかです。
だから私が『「科学的」には一定の基準(定義)』があるといったのは科学には一定の基準(定義)があると言っているのです。


あと、科学的ならば論理的だとは思いますが、論理的だからといって科学的にはならないと思います。「科学的」な主張は論理的主張よりもずっと狭い範囲だと思います。
だから、「科学的とは論理的」なのです。間違ってはいないです。でもイコールの関係ではないです。


追記:とても稚拙で言いたくないしこの議論では一言も触れてませんが、
「現行の科学と矛盾しない理論ならば見える人と見えない人がいるのは何故ですか?」
おそらくcecilさんの主張が真であったとしてもこの疑問には答えられません。
【2008/11/23 10:57】
引用あるいは解釈は正確に
私はそんなに理不尽なことを要求したかと思って見返してみました。

>>回答は質問に対する私個人の確信に基づく主観的意見です。
に対して
>ならば「科学的」に見せかけてはいけません。
と言っています。
個人の主観と科学には隔たりがあることをcecilさんはご存じのはずです。主観的に答えるのならば「確信」の内容を話してもらわなければ「科学的」でないのではないですか?
むいみ 2008/11/23(Sun)12:50:56 編集
【返信】見える人と見えない人がいる理由
>もし以上の回答で納得出来なければいずれもう少し対話の状況に余裕ができたら改めて回答しましょう。
まったく納得できないですが今後、ということなので置いておきます。
以前に行った質問でいうなら
>>4.異次元に干渉できる人間が稀に存在する
>>しかしこれもその人間が「三次元の存在である」限り科学的アプローチは出来得ると考えられます。
>>できないとするならどのような理由でできないと考えられますか?
といったところでしょうか。「稀に」ではなく「すべての人が持っている」しかしその能力は「眠っている」ということですね。
これについても後日お話ししたいと思います。
というか以下の理由により詭弁になりかねないので出したくありませんでした。
1.cecilさんの仮説が成り立つこととこの疑問は別問題である
2.よってこれはこれでまた別に証明する必要がある命題である
しかしお答えいただけるということなので今後また質問させていただくかもしれません。

ちなみにこの「まったく納得できない」は「まったく理解できない」という意味ではありません。言いたいことはわかります。
【2008/11/24 03:33】
主題に入る前の摺り合わせ1
ここまでの私の主張の確認を行います。

1.主たる主張の根拠は知恵袋上の回答内には示されてはいない。それは今後テーマ5の中で明らかにして

いく。

2.回答文は科学という観点からは否定も肯定も出来ないことを通常科学の知識を根拠として論証した論理部

分と、現時点ではオカルトとされている概念も、通常科学の範疇として科学的視点からも説明しうることを述べ

ている主観的意見部分との大きく分けて二つの文脈によって構成されている。

3.主たる主張は回答者の主観的見解であり、科学的理論が備えるべき根拠や事例などは備えていないため

、科学的仮説とまでは見なせないが、主観的意見としての仮説とは言える。
すなわち主たる主張を“科学的に論証”はしてはいないが、“科学的に解釈”でき得る可能性をオカルト的価値

観と科学的価値観の両者を直接結び付けることで示唆している。

※補足的として
①「科学的」とは論理的ということであり、つまり科学的“思考過程”ということである。
②この問題を解決するに最も適する物差しは”科学”であるという様に“現行科学あるいは通常科学”と条件付

きで表現せずに単に“科学”と言った場合は、この次元内における通常科学を包括する多次元宇宙の実在を

前提とした物理科学全体、すなわち自然の摂理という意味で使われる。

※②については以下の回答の中で“現行の物理科学を完全に肯定した上で、その物理科学を包括するもの”

と説明しています。なお、この回答そのものは主たる見解に至るまでの思考過程が書かれています。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1120667161


引き続き仮説と仮定という用語についても述べてみたいと思います。

それぞれの意味は以下のように説明されています。

岩波国語辞典

仮説:ある現象を統一的に説明するために立てた仮定。

仮定:仮に定めること。また仮説。

新潮国語辞典

仮説:科学や哲学などで、ある事実または現象の原因を統一的に説明したり、またはある理論体系を基礎付け

たりするために実際の証明をまたずに仮に前提される命題または理論。
これが、観察や実験で検証されると仮説の域を脱して、一定の限界内で妥当する真理となる。

仮定:一仮に定めること。二〔哲学〕①事実の有無にかかわらず仮に定めること。仮説。②何事かを説明するた

めに、真偽は分からないが有りうべきこととして仮に定めた事柄。→仮説

広辞苑

仮説:〔哲学〕自然科学その他で、一定の現象を統一的に説明しうるように設けた仮定。ここから理論的に導き

出した結果が観察・計算・実験などで検証されると、仮説の域を脱して一定の限界内で妥当する真理となる。

仮定:①実際とは無関係に想定されること。②何かの現象を説明するために一応想定されること。
その条件を厳格にしたものが科学上の仮説。③ある推理を出発点として設定される命題。仮説。

現代科学思想事典

仮説と理論

研究が進んで法則間の関係が明らかになり、諸法則がある一つの体系にまとめ上げられた場合、その体系を

理論という。
ただし法則それ自身も、特に基本法則の場合には、広い意味で理論といえる。
法則や理論が、確かに成り立つという保証のないまま用いられるとき、それらは仮説と言われる。
法則も理論も最初は仮説として立てられ、それが検証されることによって、はじめて法則または理論として公認

されるのである。
しかし科学史が教えるところによると、いかなる理論もいつかは新しいより優れた理論によってカバーされるが

如くである。
その意味では、あらゆる理論は仮説である。

以上より導かれる仮説(仮定)とは

1.何事かを説明するために、真偽は分からないが有りうべきこととして実際とは無関係に仮に定めた事柄であ

る。
2.あらゆる理論は仮説である。

すなわち“法則も理論も【最初は仮説として立てられ】、それが検証されることによって、はじめて法則または理

論として公認される”のであり、しかもそれらの法則や理論でさえ、絶対に正しいとすることはできないことは“科

学史が教えるところ”です。

従って私の主張の中に現時点では未だ科学で検証されていない仮定が含まれていたとしても、それをもって“

実証されたものと実証されていないもの”を並列する形ではいかなる科学的主張も出来ないとすることは、その

時点において通常科学が揺るぎない基盤の上にあるものであるかに思っている潜在的固定観念があるという

ことであり、それではいわゆる通常科学の範囲内でしか思考出来ない科学至上主義と同じであるということで

す。

科学は完成され固定化されたものではなく、今も常に進化発展をし続けている、生きた存在だということです。

私が科学的常識では目下のところは全く異なるカテゴリーに属する概念を直接結ぶという、いわゆる飛躍的見

解を公に主張することをためらうことがない“根拠”は、科学自身の歴史が“法則も理論も最初は仮説(何事か

を説明するために、真偽は分からないが有りうべきこととして実際とは無関係に仮に定めた事柄)として立てら

れ、それが検証されることによって、はじめて法則または理論(あらゆる理論は仮説である)として公認される”と

いう過程を経ているという事実によってそれを許容しているからです。


追記について

「現行の科学と矛盾しない理論ならば見える人と見えない人がいるのは何故ですか?」
“おそらくcecilさんの主張が真であったとしてもこの疑問には答えられません。”ってどうしてそう断言出来るの

かな?いつもの最後の一言ですね。
ではこれだけはお答えしておきましょう。

まず見える人と見えない人がいる理由です。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1119940861(BAではありません)

次に現行の科学との間に矛盾が生じない理由です。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1117972231

以上は質問の意図に対しての回答ではありませんので、統一的な説明ではありません。
もし以上の回答で納得出来なければいずれもう少し対話の状況に余裕ができたら改めて回答しましょう。

一応簡単に説明すると見えるか見えないかは人間の肉体的個人差と同じ理由です。
そして霊は異次元にいるが、特にいわゆる幽霊と呼ばれている波長の低い(長いではイメージしにくいので)

霊は霊界の次元に比べると遙かに地上の次元に近い次元の更にその中に無数に存在する“境涯”(たとえば

同じFMのラジオ波でもその周波数帯の中で更に個々のラジオ局の周波数が細かく分かれていることに相当

する)の最も地上に近い境界付近のレベルに存在しているので、霊視能力(霊体の視力)が高い人にはその

受信帯域が少しだけ広いので条件が良いと(電波状態が良く、一方感度も良好でなおかつ周波数が一致す

ると)見えてしまうということです。
つまり肉体の視力で視ているわけではありません。
ただし見え方にも様々あり、この様な霊視の他、テレパシーによってイメージを送る方法、物質化現象による方

法などがあります。
それは人間界でも人物の姿形を見せるには実物、絵画、写真、動画など様々な方法や媒体が存在するのと同

じです。
特に物質化現象は“物理的な現象は霊が霊的能力の高い(もともとこちらの次元に存在している)人間の能力

を盗用(利用)している現象であり、霊自体はその霊媒体質者の潜在的超能力(肉体に内在している霊体の能

力)を引き出して利用している”少し特殊な事例であり、良く交霊会でのエクトプラズム現象として紹介されてい

るものです。
この事例の場合だけは質問の意図からすると、矛盾に見えるかもしれませんが、よく読んで頂ければ一応霊界

側の霊が直接的には関与していない現象であることが分かります。

まあ、唯物論的合理主義では途方もなく、滑稽でオカルト的な世界観でしょうが、実際に存在することを肯定す

る側としての標準的回答です。
敢えて標準的という言い方をしましたが、これが絶対に正しい説明であるとは言いません。
私自身既に離陸してしまった飛行機の内装を組み立てながら飛行しているような気分であり、未だ勉強中の身

であります。
おそらく私よりもっと優れた知識と文章力のある回答者はいるでしょう。
しかし、この対話においては取りあえずその相手として私を選ばれてしまったので、もし他の説や主張と食い違

いや矛盾があったとしても取りあえずは私の知識をもって標準と見なして頂きます。
その後更に優れた意見と思える回答があればそちらを採用するもしないもご自由にして下さい。
そうしないと更にややこしくなるので。

なお、既に現状では一つのお答えに対して複数の疑問質問が出されており、目下はその中で最も重要と思え

る質問に答えることが精一杯です。
そうするとその答えに対してまた複数の疑問質問が追加されます。
出来れば本筋には直接関係ない質問はその機会が来るまでしないで頂いた方が良いと思います。
これをやっていると前回の議論同様本題に進めなくなります。
この対話は未だ私の見るところその過程で言えば一合目にも達しているとは思えません。
今はまだ登山道の入り口で服装や装備、携帯品の点検をしている段階といった状況です。
これから先はまだまだ長いのでそんなに焦る必要はありません。
できる限り一問一答の形式でお願い致します。
cecil_scott_forester 2008/11/23(Sun)23:51:37 編集
Re:主題に入る前の摺り合わせ1
まず最初に、重複と思われるコメントを非公開にしました。
必要ならば復帰させます。


>1.主たる主張の根拠は知恵袋上の回答内には示されてはいない。それは今後テーマ5の中で明らかにしていく。
「テーマ5についての対話1」がすでにあるので始まっているように思っていました。
※念のためテーマ1では仮説の飛躍についてのみ提示されているので証明の問題はテーマ5の中で考えていきましょう。【cecil_scott_forester 2008/10/30(Thu)23:37:06】
の発言でしょうか。
すみませんがharesoraは言葉の変換や文意の汲み取りが苦手なので私が見落としていると思ったらはっきりと指摘してくれますか?
その方が結果的に言葉を費やさなくて済むと思います。

>おそらく私よりもっと優れた知識と文章力のある回答者はいるでしょう。
それはわかりませんが、私が知り合った中では最も優れた回答者です。

>しかし、この対話においては取りあえずその相手として私を選ばれてしまったので、もし他の説や主張と食い違いや矛盾があったとしても取りあえずは私の知識をもって標準と見なして頂きます。
とりあえず対話を打ち切らないでいてくださるだけありがたいです。
ここまで長くなってくるとcecilさんは大丈夫かもしれませんが、私の方に発言の齟齬が出てくる可能性もあります。そして、それを探すのがとても大変です。
今は入り口でまだ話したいことは何も話していないので双方の齟齬はひとまず置いておくのがいいのかもしれません。
ただしそうすると「ここまでは同意した」という線引きが難しくなるかもしれませんが、ご了承ください。


最後に。
今までの私の発言で同意を得られたものはありますか?
「論文的記述に拘っているわけではない」という部分は納得していただけましたか?
「科学主義者だろうが唯物論的合理主義者だろうが理解する意思はある」というところはこれから見せねばいけませんか?
回答の仕方についてはこれ以上やっても発展はないので、もう一つの方、テーマ5に関してお願いできますか?それからまた戻ってこようと思います。
また、これに関して新しくエントリを立てます。
タイトルはどうするのがよろしいでしょうか?
cecilさんの主張とその根拠については「科学的仮説とは?」http://kuroha.blog.shinobi.jp/Entry/39/(11月20日のエントリ)にお願いします。
それ以外の話はすぐにエントリを立てます。
しかし来週一週間は返答ペースが落ちることをあらかじめお伝えしておきます。

追記についての返答は上の私のコメントに返信しました。
【2008/11/24 03:29】
テーマ5についての対話2
既にテーマ5は始まっています。

しかし、haresoraさんがそうは思えないほど遅々とした進行状況なのは、haresoraさんの思考方法が未だ“直線的”であり、その思考方法ではこの世界観を理解する方法としては適していないことが分かっているからです。

それは以前紹介した『日本の弓術』の著者である西洋的合理主義者のドイツ人とその日本人師匠の間に起きたジレンマと同じものです。

その感性的な違いをどの様に分かってもらうかということが、現段階では最大の困難さを感じています。

たとえるならば生まれつき全盲で色彩というものを見たことが無い人に“赤”という感覚的概念を言葉で伝えようとするような感じです。

こう言えば私がどれ程の困難な立場にあるか、ご想像いただけるでしょう。

そのためまずはその直線思考以外の思考方法を理解していただくことから始めなければならないのです。
登山をするのにアクアラングやウエットスーツ(直線思考)は不要なだけでなく、不都合でありはっきり言えば邪魔な装備です。

しかしそれは長らくharesoraさんが馴染んできた思考方法であり、最も信頼している手段であり、今まさに日々その思考作業の中で生活しているものである以上、いかなる場面、特にこのオカルティックな世界を探検するためには身を守る手段として絶対に手放せない武器でもあることは良く分かります。

そこで今回は宿題を出してみたいと思います。

すでに読まれているかもしれませんが、私が上記で言いたいことを『心の科学』の第8章が代弁しているのでそこを一読願えないでしょうか?

そしてご意見をいただければ、次の対話への何らかの手がかりが見いだせるかもしれません。


見える人と見えない人がいる理由についての補足

この疑問についてはどうせいつか触れることになると考え、今は上記の問題に集中するつもりで、その時が来るまで保留するつもりでしたが、上記の感覚の差を埋めるために、この世界とあの世界の二重性を理解してもらうのも一つの段階としては有効かもしれないと思い、また今はどこから話を進めるべきかを手探りしている状況でもあり、折角具体的質問が出されているのでこの疑問を進める中で話を拡大させて行くのも良いかもと思い直しました。


“>>できないとするならどのような理由でできないと考えられますか? ”については以下の様な理由によります。

人すなわち人体は3次元における魂の肉体ですが、その肉体とは別にいわゆる霊と呼ばれる異次元における肉体を持っていて、その霊的肉体と地上の物質的肉体とが結びついています。
言い方を変えれば誰もが本体である魂に霊体と人体をまとっています。
更に言えば霊体も人体もその存在する次元における魂の表現媒体であるという意味では全く同じものです。
つまりより大局的に見れば霊と人体とは全く別なものではなく、その実体として存在出来る次元の差によって“使い分けられている”だけなのです。
すなわち霊が存在している次元においては、霊は人体同様実体のある存在ということです。

※霊的肉体についての過去回答
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1419937254

この霊体自体は本来異次元の実体なので、その存在の波長は地上の肉体と結合するため、極めて低くなっていますが、それでも人体の“中に”存在している訳ではありません。
二つのごく僅かにずれた別々の次元の実体が重なっている状態です。

従っていかなる3次元世界の科学機器を使用しても霊そのものを実体として観測することは《不可能》です。
何故ならば3次元の観測機器は3次元の事象としての物理的実体やエネルギーを観測することしか出来ないため、異次元の波長で存在する存在には感応出来ないからです。
これは一般家庭のラジオでは警察無線などは受信出来ないのと同じ理屈です。
それぞれの帯域が違うのです。

それは可視光線しか認識できない肉眼で赤外線や紫外線を見ようとすることと同じことです。

つまり“しかしこれもその人間が「三次元の存在である」限り科学的アプローチは出来得ると考えられます。 ”という前提が誤りなのです。

光の正体を見極めようとして、光っているからと言う理由で鏡を調べようとしているのと同じです。

鏡は光を反射する単なる媒体であり、光源ですらなく、もちろん光そのものではありません。

それと同じように人体は単なる霊や霊能力の媒体であって、霊そのものでもその能力の源でもありません。

この点があくまでも現行科学の範疇で理解しようとする思考方法では乗り越えられない感覚の様です。

霊を見たり、感じたりしている感覚は地上の肉体の感覚によるものではなく、各人に備わっている霊の霊的能力で感応しているのです。

この対話によって何かを得たいとお考えならば、これから理解して頂くことになる世界観を受け入れられなければ、先に進むことはできません。

これからもまたこのような唯物論的価値観と二元論的価値観との相克が繰り返されることになるでしょう。

納得とは理屈として、あるいは論理として理解出来たこと、と解釈しているので私の中では同じ意味です。

なお、いつもの言葉の繰り返しですが、理解(納得)と信じることは別のことです。
また私は知りたいという質問に対してお答えをしているだけであり決して信じさせる意図はありません。
しかし理解してもらうならば超えて頂かなければならない、あるいは取りあえず受け入れてもらわなければならない価値観や世界観の壁があるのです。

実は私が“根拠”という言葉にこだわり続けたのも、その言葉が意味する“直線思考”では理解出来ない世界観だからです。
この点を理解していただけるのはずっと後のことになるかもしれませんが、もしその地点までこの対話を進めることが出来れば、その点に強情にこだわり続けた私の真意も単なる文章形式上の問題ではなっかったことが分かって頂けるでしょう。

従って“「まったく納得できない」は「まったく理解できない」という意味ではありません。言いたいことはわかります。”とは説明されていますが、それでは理解された感が私には伝わらないので、出来れば「説明や解釈そのものは納得はしたが(理解出来たが)、だからといって信じた訳ではない」という言葉の方が有り難いです。
その言葉がいただければまた別の質問があればその質問に進みたいと思います。
cecil_scott_forester 2008/11/28(Fri)00:22:28 編集
Re:テーマ5についての対話2
心の科学が家になくてひやりとしましたが学校にいてくれたので読んでみますね。
母が「持って行って読んでもいいか」と言ってたので実家から取り寄せなくてはいけないかと思いました(笑)

さて、では本格的な対話の前に少しだけ確認をします。
以下の質問の中で心の科学を読めばわかる(たとえば私の思考の形成に銀英伝や十二国記が大きな影響を与えているから読みなさいと言われたら読むのでしょうか・笑)から読めと言うのならコメントしてくださるとありがたいです。
コメントをいただく前に読み、私自身が理解したならば訂正コメントを載せます。ただしこの返信はこのままにします。

1.直線的な思考方法とは具体的にどういうことを指していますか?
①一般的な科学的な思考
②haresora38の科学的な思考
③西洋的合理主義
④その他(具体的にどうぞ)

正直、①と②に大きな乖離があるとは思えません。
②の場合はharesora38のどこがどう直線的でまずいのか教えていただけると助かります。

2.前提条件の受け入れについて
①「人すなわち人体は3次元における魂の肉体」などの記述を「事実」と仮定したうえで話を聞く
②①が納得できないのなら先に話し合っておくべき


次に「納得」と「理解」に関して
納得と理解を同じ意味とするのはcecilさんの主張であり、私は納得と理解は違う意味であると主張しています。cecilさんの主張と同じだけ私の主張も尊重してほしいとは思うのですが、正直こんなどうでもいいところでごねてもしょうがないので言い換えます。
「cecilさんのおっしゃっている内容は十分理解できていますが同意はできません。」
cecilさんには相手(haresora)を説得し信じさせる意図がなく、これには私も同意見です。私はcecilさんの主張の内容とその妥当性を知りたいだけで今の段階では間違いであるとも嘘であるとも絶対に証明できないとも思っていません。
haresoraの言っている納得と理解の違いはagreement(同意)とunderstanding(理解)の違いと言えば納得してもらえますか?
私にとって科学的な話で信じる(believe)はありません。

他の肯定派の人には受け入れられてharesoraができない理由は「直線的思考」だからですか?それとも「私のスタンスが否定的だから」ですか?


最後に蛇足ですが、
>生まれつき全盲で色彩というものを見たことが無い人に“赤”という感覚的概念を言葉で伝えようとする
について。
感覚的概念ではなく赤色を科学的に伝えることは簡単にできます。理解できるかは別として、ですが。
緑色励起の赤色光を用いて研究をしているので。
あらかじめ言っておきますが、これを直線的思考というのなら科学的思考を捨てろということになります。そして、科学的な議論において感覚的概念での対話を求められるとは思っていませんでした。
もちろん「cecilさんがharesoraの武器だと思っているもの(上記質問1)」を脇に置いておくことはできます。私にとって傍らないそれがないことは「怖いことでもなんでもありません」が物差しにしていることは事実です。私にとって怖いのは物差しを一切与えられない状況で「さあ測れ!」と言われることです。

以前(2008/10/30(Thu)01:40:00)に
>5.科学が不適であるならば使うべき物差しはなんですか?

>この議題は最も重要なテーマです。
>そのため本格的な回答はまた次回にすることにしました。

>ただし誤解のある点は解消しておきたいのですが、この問題を解決するに最も適する物差しは”科学”です。

とおっしゃっておられたので私は「科学的に」議論を進めていただけです。これは上記1の確認事項に該当します。
「科学」に対する齟齬は除かれたものとしましたが、今一度お聞きしておきます。
この
>この問題を解決するに最も適する物差しは”科学”です
の「科学」とはなんですか。
①科学的知見
②科学的方法
③科学的な思考
普通は①~③のすべてが寄り合わせた総称として「科学」と言っていますが、文脈によって「科学」は個別の意味と取ることがあります。
cecilさんはどの意味で用いているのでしょうか。

以上少し長いですが一問一答形式にしましたので答えやすいかと思います。
【2008/12/06 16:54】
cecil_scott_foresterさんへ
コメントを確認しました。

まずはお身体の方を大事にしてください。
こちらでの議論は思い出したときに身体にご負担をかけない程度に、生活習慣を変えない程度に継続していただければと思います。
なるべく双方の負担を減らせるように頑張ってみます。

それにしても大事には至らなくて本当に良かったです。
cecilさんがいなくなってしまうと本当に寂しいのでどうかご自愛くださいね。
むいみ 2008/12/03(Wed)09:36:38 編集
心の科学第八章を読んで
「私たちが特異な体験の眼を使うとき、論理的思考の眼は働きをやめる。論理的思考の眼を使うときは、特異な体験の眼は働きをやめる。」
つまりcecilさんはこの主張を「真」としており、haresoraはそれが捨てきれていないから話し合いができない、と。
なんかちょっと馬鹿にされた気分ですね。

もし、cecilさんがこの議論においてメイヤーの言うような態度(理性的、論理的思考の一時的な放棄)をharesoraに要求していたとしたら、それはcecilさんの議論のフィールド設定が悪いのですよ。
私は聞いたはずですよね。
「物差しは何を使うべきか」と。
「科学です」とおっしゃいましたね。
だから科学的思考のスイッチを入れているのです。
また、cecilさんは論理的に話しているとおっしゃいました。しかしメイヤーは(一時的にも)論理的思考は捨てろと言っています。

「心の科学」に対して感じるもやもやも理解できました。私が「科学的な視点」で見ていたからなのですね。

それで、私は科学的思考、論理的思考をはずせばいいのですか?その場合、物差しとして何を与えてくださいますか?
まさか、測る必要はない、そのまま受け入れろとはいいませんよね。
話を全部聞いた後に論理的思考ですべての疑問点を訊いたら良いのでしょうか。

あの、私の中では論理的思考と超常体験を聞いたときの不思議な気持ちは対立しません。それぞれを両立する術を私は知っています。少なくとも不思議なことは不思議であると留めておける程度には私は理性的です。私とメイヤー、メイヤーの出会った科学者と私はそれぞれ別個の人間です。彼女が会った科学者の態度もそれぞれ違ったはずです。
それなのに彼女のケースを私に当てはめるというのは私はそれだけ見縊られていた、ということになります。最初にレッテルを貼って相手の態度を決めつけるな、と言いましたよね。
http://kuroha.blog.shinobi.jp/Entry/38/

追記:リンクが貼ってなかったので貼っておきました。
むいみ 2008/12/07(Sun)10:41:59 編集
今後の議論について
議論の方向性がずれるといけませんのでcecilさんの返答があるまでこちらから質問はしません。

ただし、一つだけ提案します。
知恵袋での書き方について私がごちゃごちゃ言ってしまったわけですが、議論に混乱を来たすので知恵袋に関しては一時棚の上に置いてください。

まずはcecilさんの主張について「科学的・論理的」にお話をしたいと考えています。
念のため「科学的・論理的」については上記の質問への返答次第で変化することをお伝えしておきます。


最後に、最近めっきり冷え込んできましたのでお身体の方を第一に考えご自愛ください。
それでは以上、よろしくお願いします。
むいみ 2008/12/12(Fri)16:15:00 編集
cecil_scott_foresterさんへ
こんにちは。

年末ということでcecilさんもお忙しく、体調も優れないことと思います。また、私事で申し訳ありませんが2月末辺りまでまともにブログを管理出来る状況になくなるのでしばらくコメントをいただいてもお返事できなくなる旨をあらかじめお伝えしておきます。

これからの議論の方向性を見誤るかもしれませんのでcecilさんからのお返事をいただかない限り私の方から書くことはありません。
あるいはコメントを読み返しているのですが、その整理ができた段階で一度エントリは立ち上げるかもしれませんがそのどちらかにならない限り私からコメントは書きません。


冬本番のような身を切るような寒さが続きますがどうぞご自愛ください。
もう間近ですがどうぞ良いお年をお迎えください。

また、最後になりましたが12/3の私のコメントタイトルが不適切だったことをお詫びいたします。本日修正いたしました。
むいみ 2008/12/28(Sun)14:56:46 編集
議論終了のお知らせ
cecil_scott_foresterさんのご意思を伺ったところ、私とはもうお話をしたくないそうなので議論は終了致しました。ただしコメント欄は閉じませんので何かご意見がありましたらお気軽にどうぞ。

そのうち終了の経緯をまとめる予定ではいますがちょっとやる気がないので、以下のエントリを参考にしてください(他にも書き散らかしたのはありますが最低限)

http://kuroha.blog.shinobi.jp/Entry/116/
http://kuroha.blog.shinobi.jp/Entry/140/
http://kuroha.blog.shinobi.jp/Entry/142/

ここに至るまでに7つ質問をしましたが雑カテなので消えてしまいました。
ただ、個人的に保存してありますので要望があれば公開します。
ま、簡単に要約すると、
・haresora38(私)が余計な一言を言って、それをみてcecil_scott_foresterさんは対話に値しないと決めつけ無視してたと。
・私がしつこいので質問には答えるけど、感情的な奴とは話ができんと。
・cecilさんの拘ってることは本論と関係ないよね、そんなことが大事なの?と訊いても答えていただけなかったので、いかにくだらないことかを体現(レッテル貼りの件)してみた。
・それでも理解してもらえないうえに私には自省を促すのに自分はまったくもって自省しない姿にイライラが募り、雑カテで怒られたのをきっかけに質問を止めた。

以上です。

というか
「1話したら0.5で返ってきた、みたいな内容の薄さ」
だけはこのコメント欄で理解できるかなって感じです。
その他は何も教えてもらえませんでしたねー。


補足:たくさんURL貼ったら怒られちゃった(笑)
スパム対策なんだろうけど、今のところスパム被害はないから対処しておきます。
むいみ 2009/06/12(Fri)20:03:55 編集
Re:議論終了のお知らせ
うん!無理でした>URL規制

基本的に「雑感」「オカルト・超常現象」カテゴリに書いてありますので、右側のプラグインの「カテゴリ」から当該カテをクリックしてください。
お手数おかけして申し訳ありません。
【2009/06/12 20:09】
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