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日常に潜む疑似科学的なことをメインに食指の動く方にのらりくらりと書いていく雑記です。
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※これは釣ってきた魚の魚拓の話ではなく、Web上のページのキャッシュの保存の方の魚拓の話です。


さて、ちょーっと私の嫌いなタイプの質問者が知恵袋にいまして、かーなーりムカッときましたので魚拓を取ってみました。ええ、初めてです。証拠を残したいと思うほどイラッとしたのは初めてなのです。

ネット上の文章をコピペするより悪質ですね。
ある課題に対してある方から回答をもらい、その回答を別のカテで別の回答者に添削してもらうのです。しかも自分が書いた文章のようにしてね。
My知恵袋なんて嫌な思いをしたことがある人ぐらいしか見ませんし、他の回答者はたぶん見なかったんでしょうね(あるいは見たために回答しなかった)。


これ、ぜひ担当教官にチクりたいですよ。どこの大学よ!もうっ!


ちなみに魚拓を取ったのは、こういうのを指摘するとこういう人は90%の確率で質問ごと削除しやがりますので証拠を残しておいてやろうというむいみさんの優しさです。

魚拓1→http://s01.megalodon.jp/2009-0607-2152-40/detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1226877497

魚拓2→http://s03.megalodon.jp/2009-0607-2206-46/detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1427007279


どこかで、レポートがWeb上の文章をコピペしてたら探してくるツールを発表してた人がいたような気がするんだけど…どこだっけ。
ちなみのちなみに。魚拓が消されても問題ないようにスクリーンショットは保存してあるよ(にっこり)

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知恵袋で続けることで「難癖をつけられて可哀想な自分」を演出したいのだろうか。
善意の解釈をして待ってたのに無視されて返答する義務はないとか言われた私は可哀想じゃないんだろうか。

もう疲れちゃったよ。
なんでただの科学的な仮説を聞くのにこんなに苦労が必要なんだろう?

感情的になる人だって理性的になるときはあるんですけどね?
反対にずっと理性的な人なんていないじゃん。cecil_scott_foresterさんは自分が冷静だとでも思ってるんでしょうか。
常に理性的で論理的じゃなきゃ理解できない仮説ってなんですか?

今回の唯一の収穫は「メイヤーの本の感想で書いた私の解釈は違う」ということがわかったことです。
どう違うのか言ってくれないと理解できないんですけど、そうならそういえばいい話じゃない?
なんで7回目で初めてそういうことを言うかな。
7回目って短く見えますけど、知恵袋だと2000×6=12000文字費やした後ってことですよ。
そんなの最初の一行目に書けって話じゃないですか。
それを言ってくれればここまでこじれることはなかったと思うんですけど。

「レッテル貼られて可哀想な私」を主張するのが心の底からくだらないと思っている私に対して「被害者ぶっている」といえるあたりがすごい。
「レッテル貼られて可哀想な私」って主張するのはくだらないよね、あなたが私の一言に拘るのと同じぐらいにさ、って言ってるのに。もちろん「解釈が違う」のならこだわることの位置づけは異なってきますよ。なんで1万字を費やさないとそういうことが言えないんだろうか。

あと、どうしても私が「被害者ぶりたい」と思ってるんでしょうか。
もっと可哀想なことがあるでしょうに。

「お手数ですが拙ブログにコメントください」
と言っても来てくれない。
仕方なく知恵袋に質問を立てたら(しかも質問を立てさせられてるんですからね)私の方が悪者(第三者からね)にされる。
もーう踏んだり蹴ったりですよね。
周りから見たらみっともないから止めなきゃいけないってのはおかしくないかな?
周りから見たらみっともないけど、それを脇に置いてでも訊かなきゃいけないと考えてるから訊いてるんだからさ。だからディベートをみると「可哀想」とか頓珍漢なことをいうのかしら。心配しなくてもディベート相手とは超仲良しですよーだ!(という高校時代のトラウマ)
TPOによって使い分けができない人が多い、って言っちゃうと簡単だけど、本当にそれだけなのかな。
そういう日本人的な考え方は私もよくするけど、そして犯罪になるようなことはするつもりはないけど、けじめをつけなきゃいけないのはあちらさんなんだけどなー。


この議論で得られたことってのは、
・前提条件が違うと対話は不可能になる(そのためのすり合わせをしたはずなんだけど)
・cecil_scott_foresterという単語をコピペでなくちゃんと書くことができるようになった(笑)

だけです。対話が打ち切られるようなら今後にちゃんとまとめますけど。
仮説についてはさっぱりです。
きっと理性的じゃない人には話したくないんでしょう。
どうせ私は理性的じゃないです。でも世の中理性的じゃない人の方が多いんじゃないかしら。そういう人たちに理解される努力を私はしようと思うけど、そう思わない人もいるというのも収穫です。

愚痴だからなにも推敲してないですよ。
「あげ足を取ることができる」のと「相手の文章を正しく理解する」ことはまったく別のことだと思うんですけどね。
理解してなくたって揚げ足取りはできます。
私は揚げ足取りをしてるわけじゃないですけど。

揚げ足取りと言われた用語の確認について以下に。
だって双方とも違う意味で使ってたら相手の言い分を理解できないじゃない。で、実際に違う意味で使ってたはずでしょ。
これを揚げ足取りというのなら私の行っているすべての発言は揚げ足取りの延長なのだろうと思いますよ。

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科学的:科学的なら論理的であると言えるが、論理的であるなら科学的であるというのは間違いである。
世間一般で、科学以外にも科学的に思考するのは望ましいことではありません。「“世間一般では”論理的に思考することは望ましい思考方法」とおっしゃるのなら同意しますが、上述のとおり論理的であることと科学的であることは似ているようで違います。

理論科学:私の理解した理論科学にもやはり仮説の確かさを主張するための根拠がありました。

仮説:積極的に定義を問うた覚えはありませんが、それは「科学的な仮説ですか?」とお聞きし「その通りである」という趣旨の返答をいただいたと理解しています。

根拠:どんな主張にも必ず根拠があります。それを「なぜ今話すことができないのか」を言ってくださればちゃんと待ちましたよ。
「根拠を提示しない議論は初めてである」に嘘はありません。
立派なものから貧弱なものまで見てきましたが、あえて出さない人は初めてです。

オッカムの剃刀:仮説の確からしさを審議するときに使うもの、ではありません。しかも、同じ前提の仮説でもありません。だから不適当であると言っただけですよ。仮説のスマートさ(仮定の少なさ)と確からしさはまったく別モノです。
科学的な態度で確からしさを問うのならば「幽霊の存在」は「前提」にしてはいけないのです。そこもブラックボックスであることを自覚したうえで確からしさを考えるならば、幽霊の存在を成り立たせるための「仮定」がたくさんあることを他ならぬあなたはご存知ですよね?
そして、以前の議論で私はその「仮定」についてお伺いしていたのですよ。

***************************************************************************************

以上、書いたものの一部。

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こういうとき、ニセ科学批判批判を受けるニセ科学批判者の気持ちがわかる気がする。
具体的な言及が一切ない「外から見るとみっともないからやめたら~?」という発言は、議論には一切の影響を与えないのだけど、議論を見ている第三者には影響を与えうる。
全部読んできたのならなぜ「罵り合いになっちゃう」の?
4月以降はものっそい煽ってることがまあ誰の目にも明らかですが、煽らずにいられない状況にした原因は誰なのかをまず考えてほしいです。
そもそも、優しい人たちの中では「煽ることがまず悪」「相手の意見を否定的に見ることが悪」なんでしょうか。
じゃあ私も「レッテルを貼ることがまず悪」とでも言っておきます。


入院をなんとか免れた程度の人がぱったりとこなくなったら普通は「悪化して入院しちゃったんだろうか」と思うでしょう。自分の体とこの議論ならどう考えてもとるのは前者ですよね。だから「ご自愛ください」と書いてあるのですよ。
それがとうとう4月に知恵袋を再開したので「全快したんだなぁ、良かった」と思うのはそんなにおかしいことなんでしょうか。きっとしばらくのちに返答してくれる。礼儀を重んじる人だから一言ぐらいは書いてくれるはずだ、と思うのが的外れなんでしょうか?
私は、知恵袋とこの議論は関係ないから知恵袋への回答は制限しないとあらかじめ言ってありました。
それなのに「知恵袋を再開したのは間接的に中断の理由を示唆するための手段」と言われて理解できる人がいらっしゃるのならその脳を分けてほしいです。
ずっと相手を心配していた私に対して、あいつ早く諦めないかなと思われていたとわかったらそりゃ感情的にもなりますよ。他の人はならないんでしょうか。
否定派は夢がないとか冷淡だとか言ったり、感情的では議論ができないと言ったり、なんなんですかもう!
そりゃ人間だもの、感情的にもなるよ。

西洋合理主義に対して「それはこういうことでしょうか、でもそうなら私が言ってることと少し違いますね」→スルー
論文を例えに用いたことに対して最後に【論文病だと思った】けど違った。なぜわざわざ論文病と言わなければいけない?違ったんならそっと胸にしまっておいてください。
科学主義に対して「科学的仮説に科学的な態度で臨むことがなぜいけないの?」→返答待ち

これだけされたら腹に一物も置きたくなると思うんですけど。
「お前はわかっていない」
という指摘は、何も指摘していないのと変わらないと思いませんか?
「私はこういう意味で言ったけどあなたはこう取った、それは(こういう理由で)違います」
と指摘してくれないと理解できない人もいると思いません?
「理解できない奴は放っておけばいい」
そうしたいのならそうすればいいと思う。
それは、理解を拒む態度だということを覚えておいてくれれば。
私は、科学的仮説の中身が知りたかったから訊きました。
科学的な仮説に対してそのような心構えが必要じゃないことを私は知っているけれど、できる限り譲歩してどのような態度であり続けるべきか探ってみたけれどよくわかりませんでした。
私は、後から読んであのときは科学的態度、あのときは論理的、あのときはどちらもはずしていたなんて言えるほど記憶力が良くないです。

今一度「理論物理学では問題ない科学的な仮説に対して科学的な態度で臨むのがなぜいけないのか」を教えていただきたいのです。
最近書いたものはそのうち議論が再開するようならまとめて質問します。
そうそう、リンクだけ示して読めってのもずいぶん乱暴だと思います。リンク先の内容を要約するぐらいしてもいいと思います。


誰かが、ニセ科学批判批判とオカルト批判には同じ構造を見るって言ってたけど、私もニセ科学批判とオカルト肯定になぜだか似たようなものを感じてしまうんですよね。
その「似たもの」は上述したような排他的な何か。
それが私がニセ科学といわれているものを批判してもニセ科学批判者にならない理由。
あ、最近はニセ科学批判というものは虚構だニセ科学を批判するという程度の循環論法程度しかないという結論がついたのでしたっけ。
でも、ニセ科学批判者の気持ちもよくわかるってのは矛盾しているんですかね?
ただ、ある部分は重なっててある部分は重なっていない、私の場合はその重なってない部分が多いってだけの話だと思うんだけど。


私は、cecil_scott_foresterさんに他のオカルト肯定者とは違うものを見ていて、期待していました。
もやもやしたものがこの議論で解消されると信じていたのですが、それは晴れることはありませんでした。むしろ、もっと濃くなって私の視界を奪います。
議論が終わるにしろ終わらないにしろ、今回の体験を今後に生かせるように少しまとめなきゃいけないですね。
そのとき、私は分類のためにcecil_scott_foresterさんにオカルト肯定者以外のもっと具体的なレッテルを貼らなければいけません。でも、それは議論が終わった後です。
議論中にレッテルを貼る行為は、健全な議論をするつもりがない人だ、というレッテルを私は貼ります。
そうじゃないのなら、健全な議論をして見せてほしかった。

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議論でレッテルを貼ることの無意味さ1の続き。

主にcecil_scott_foresterさんに対するコメントです。


でね、話をレッテル貼りに戻して、私が大嫌いなレッテル貼りをなんでスルーしていたかっていうと、本題とまったく関係ないからです。
私が「科学主義者」だとして、科学的な命題に対して科学的な態度で臨むのに何か問題があるんですか?
ずっとわからなくて、それを聞きたいのに4か月待たされて、こちらから催促するまで無視されて、挙句の果てに「お前は余計な一言を言った」「否定派は理解するつもりがない」ですよ。
説明してくれないものを理解できる人はあてずっぽうでたまたま当たった人か、超能力者なんだと思います。
残念ながら私はどちらでもありません。

あのね、余計な一言を言いたくなるようなことを自分が言ってないか、考えた方がいいです。
余計な一言は健全な議論の邪魔をします。
簡単に脇道にそらしてしまいます。
私はそれが嫌だった。「異次元仮説」を理解する最初で最後のチャンスと言ってもよかったから、私はどんなレッテルが貼られようとも無視しました。だってそんなちっぽけなことに拘って本題が進まないのが嫌だったから。
でもね、
私のあのコメントは【余計な一言】じゃないんです。
あれを【余計な一言】と言ってしまえるあなたはきっと、私が書いたことを理解していません。
なぜ適切な引用をしてくれないのですか?
あなたが【余計な一言】と言ったあのコメントは、

「私たちが特異な体験の眼を使うとき、論理的思考の眼は働きをやめる。論理的思考の眼を使うときは、特異な体験の眼は働きをやめる。」
つまりcecilさんはこの主張を「真」としており、haresoraはそれが捨てきれていないから話し合いができない、と。
なんかちょっと馬鹿にされた気分ですね。

でひと固まりなんです。
「haresoraにはそれ(論理的思考)は捨てられないだろう」とおっしゃっているのなら「馬鹿にされた気分」なのです。

あの、私の中では論理的思考と超常体験を聞いたときの不思議な気持ちは対立しません。それぞれを両立する術を私は知っています。少なくとも不思議なことは不 思議であると留めておける程度には私は理性的です。私とメイヤー、メイヤーの出会った科学者と私はそれぞれ別個の人間です。彼女が会った科学者の態度もそ れぞれ違ったはずです。
それなのに彼女のケースを私に当てはめるというのは私はそれだけ見縊られていた、ということになります。最初にレッテルを貼って相手の態度を決めつけるな、と言いましたよね。
http://kuroha.blog.shinobi.jp/Entry/38/

「私とメイヤー、メイヤーの出会った科学者と私はそれぞれ別個の人間です。彼女が会った科学者の態度もそれぞれ違ったはず」なのに別個の人間であるはずなのに私に対 して「彼女のケースを私に当てはめる」つまり、私個人を見て判断するよりもメイヤーのケースがすべてである当てはまるはずだとして私に適用した、そのことに対して「私はそ れだけ見縊られていた」と言ったのです。
私とメイヤーの出会った科学者は違います。
それなのにあなたは私にありもしないレッテルを貼りました。
そのことに対して「最初にレッテルを貼って相手の態度を決めつけるな、と言いましたよね。」と言ったのです。


ここまで言わないと理解してもらえないんでしょうか。
私は、言いたいことはあのコメントに書いたつもりです。
「おまえの『つもり』は理解できない」と言われるかもしれません。

じゃあ聞いてくれよ!

なんで勝手に相手の態度を決めつけて話をする価値がないと判断してしまうんですか?
あと一言「その理解は違うよ」と諭す価値すらなかったのでしょうか。

私が科学的な態度を崩さなかったのも、レッテルを貼られてもスルーしたのも、cecil_scott_foresterさんの異次元仮説を知ることの方がずっと大事だったからなんですよ。
あなたは異次元仮説を「科学的である」と言いました。
科学的な仮説に対して科学的でない態度をとることは失礼に当たります。
だから、私は全力で科学的だったのです。
私は話が進まないのは私自身がまだまだ未熟で科学的な態度が足りないのかと思って、これでもかというほど頑張っていました。背伸びしていました。

私の態度が問題だったら「最初に科学的な態度で臨まないでくれ」と言えば良かったのではないですか?それを言ったら私が「ふふーん、やっぱり疑似科学じゃない」とでも言うと思ったのですか?
私は「出発が個人的で主観的な体験談でも構わない」と言いました。
それなのに、もし、そう思われていたのなら、やはり私という人間は「見縊られていた」んだと思います。

私の言葉を裏読みする前に、私に「お前のコメントは意味がわからない。どういう意味だ」と聞いてください。
至らないこともあるかもしれないですが、私は、ちゃんと誠実に答える努力をします。


私は、私がレッテル貼りに拘ることを「くだらない」と思っています。
あなたも、そうは思いませんでしたか?こいつはなにを細かいことに拘っているんだと。
もちろん、レッテル貼りは嫌いですよ。
でも、もっと大事な話が目の前にあるのになんでこんな話をしなければいけないんだ、と思います。
同様に、私の【余計な一言】が気になるという話も、同じぐらいどうでもいい話です。
あなたは相手を罵倒するような人間じゃないことを私は知っています。
同様に、私も相手を罵倒するような人間ではありません。知らなかったならぜひ覚えておいてください。
私とあなたが相手を思いやって議論をする限り、罵倒し合って終わることは絶対にありません。
私は議論を円滑に進めるために最大限の努力をしています。
一体何が不安なのでしょう。

あなたにとって、あなたの仮説を多くの人に知ってもらうことの方が、誰かの些細な【余計な一言】を気にすることよりも大事なんじゃないんですか?




彼が、私のコメント通りに私のブログにコメントを書きに来たら、この記事に気付くかもしれません。
それまではしばらく「私がレッテル貼りに拘ることがいかにくだらないか」を嫌というほどその身に刻んでもらおうと思います。
書いてちょっとすっきりしました。
よし。もうひと頑張りするぞ!絶対に折れませんよ?だってここで折れたら相手の思うツボで悔しいじゃないですか。


追記:助詞や接続詞を編集しました。
文章を書くのが下手ですみません。

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知恵袋でのレッテル貼りの話

確かに私は「疑似科学的で危ないなぁ」って思ってたけど、それを口に出したことはないですよね。
それは、口に出して(明示して)相手に「私はあなたのことをこう思ってるんですよ」ということで相手との関係が崩れる可能性があるからです。
そもそも、私は「疑似科学的である」とは思ったけど「疑似科学」だから「排除」して「却下」しなきゃいけないなんて思ってないし。
科学の領域に踏み込み過ぎているんだったら今の立ち位置を確認して直せばいいんじゃないか、って思ってるだけなのに。
だってさ、「あなたの主張が疑似科学的に見えるのでお話をお聞かせ下さい」って言われたら嫌でしょ?
同様に、「あなたは科学主義者で、科学主義ではこの問題を解決できない」って言われても「私は科学を脇に置いておくことはできます」って再三言ってるのになんでそういうレッテルを貼られちゃうかなぁ。

もちろん、相手にレッテルを貼ることで得をすることはありますよ。
でも、それは議論に「勝つ」目的で行うものであって、「相手の意見を深く知りたいとき」にするものではないですよね。
そんなことをしたら一時的にでも築かれていた議論の相手に対する信頼関係は崩れます。
それが的外れだったらなおさらです。っていうか、せめて具体的にどういうところがいけないって言われたらまだ意義のある指摘だと思いますけど、レッテルを貼るというそれだけじゃいったい私にどうしてほしいのかがわからなくて本当に困惑させられます。
「もしかしてこの人はまともに話をする気がないんじゃないか」と思わせるには十分だと思いますよ。


私は、おそらくものすごくゾーニングに拘る人間である自信があります。
科学が科学の領域にいる間は、宗教が宗教の領域にいる間は、オカルトがどの領域も侵さなければ不干渉を決め込むけれど、その領域を侵したら、たとえ科学だとしても科学の領域をはみ出して宗教の領域を侵したら批判します。

私は、科学というものを信用しています。
それは科学に自らを正す性質があるからです。
だから、科学を使う者は謙虚でなければいけないと思ってるんですよね。
あ、ここは別に強制してないですよ。
私は謙虚に向き合いたいし、領域を踏み出してまで「科学的じゃない」なんて言いたくないです。
そこらへんを自覚できるようになったのはここ1年ぐらいで、それまでは「科学で神や幽霊を否定する権利なんてあるのか」なんてことを真剣に考えてました。
それで、最近行きついた私なりの回答が「領域を守れ」ってことです。
はみ出しちゃいけないって言ってるわけじゃないです。
ただ、はみ出した結果他の領域を侵してしまったらその領域のルールを適用すべきではないの、ということです。
元はオカルトだから科学の領域に入ってしまっても証明できてなくても許されるってんでなくて、元がなんであれ科学の領域に入っちゃったらその領域のルールに従いましょうよってことなんですけど。

だって、野球小僧がサッカーやるときはサッカーのルールに従うでしょ。
「俺は野球しか知らねーからボールは手で投げるんだ!」じゃ通用しませんよね。
反対にサッカー少年(なんで野球は小僧でサッカーは少年なの)が野球をやるときに
「サッカーでは11人で戦うんだぜ、知らねーの?」
って言って野球のルールを無視する人はいませんよね。

「ルールは守るべし」という規範があって、それをよしとしたはずなのに、なんで自分勝手にルールを捻じ曲げちゃうんだろうね。

つい熱くなって別個の話が盛り上がりすぎたので記事を分けます。

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