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日常に潜む疑似科学的なことをメインに食指の動く方にのらりくらりと書いていく雑記です。
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すごく……長いです。
しかも(削るのが面倒くさい語感や意味が変わってしまうと怖いので)削ってないですし、うまくつなげているかわかりません。私が読んで、こういう風につながっているはずだ(私のコメントにはアンカーが多いので比較的つなげやすいですがcecilさんのコメントがどこにつながっているかつかみかねている部分がある可能性がある)という推測の元に作っています。
読みにくく、また前後がつながっていないようなところも多々あると思いますが、わかりにくいところ、間違っているところ等ありましたらご指摘ください。

対話者の片方が編集しているので知らずに恣意的になる可能性がありますがコメントはすべて公開されていますので間違い・勘違い等ありましたらご指摘ください。



以下赤字は私(むいみ=haresora38)のコメント、青字はcecil_scott_foresterさんのコメント、黒字は引用者による注釈です。


”科学が不適であるならば使うべき物差しはなんですか?”

”個人的体験と通常の手段とは認められない方法で得たとさる知識、そしてそれらを解釈する《各個人の理性と論理》によって導かれた確信”
ということになります。
これではharesoraさんが納得される答えではないことは間違いないでしょう。
そうするとかつて私自身が辿った道程がそうであったように、その確信に至までの過程を順序よくかつ根気よく一つ一つ煉瓦を積み上げて大きな建物を建てていくようにお話しするしか他に方法はありません。
それはとても2000字に収まる様なものではないのです。

>個人的体験と通常の手段とは認められない方法で得たとさる知識、そしてそれらを解釈する《各個人の理性と論理》によって導かれた確信

すら一部は科学に包括可能だと私は考えています。
たとえば『個人的体験』の検証をするとしたら科学的方法論が有効であると考えます。
『通常の手段とは認められない方法』が後に科学的に妥当だと考えられる方法になる可能性もあります。
おそらく問題は『解釈』と「論理の展開の仕方」なのだろうと思っています。


この時点でcecilさんから示されたのは個人的な体験とそれによって得た(主観的な)知見ですよね。それもスタートとしては問題なく、その解明方法は科学的方法論が有効であるのではないかと提案しています。


誤解のある点は解消しておきたいのですが、この問題を解決するに最も適する物差しは”科学”です。
不適なのではなく、あまりにも科学が唯物論的な自然科学的証明に偏りすぎていて、個々の個人の無数と言って良い体験や臨死体験、生まれ変わりの研究、そして管理された条件で行われた交霊実験による検証などを非科学的として排除しようとする、その自然科学万能主義に問題があるのです。
なお、私にとって”科学的”とは論理的ということであり、つまり科学的思考に基づく検証手順、実験方法などは私にとってもこの問題を解明するための最も重要なツールです。
つまり科学そのものが不適であるというより、現状の社会に蔓延している唯物論的世界観だけで科学を用い世界を解釈することが不適なのです。


上下のコメントの間に本来ならかなりのコメントのやりとりがありますが、私はこの時点から同意が得られたものとして科学的な態度でこの議論に臨んでいます。



 
5 (科学が不適であるならば使うべき物差しはなんですか?)に関しては、これはもう私の視点からは科学的方法を提示するしかないですし、科学ほど「客観性」を重視するものはありません。でも「客観性」だけではダメなんですよね。超常現象のほとんどが体験談や主観を元にしていますよね。私は別にそれでもいいと思っています。その話の真偽を検証するためのスタートが体験談や主観でもいいと思ってます。ただし「何かがある」といいたいのならやはり誰もが納得しうる手続き(方法)を提示する必要があるでしょう。
私が超常現象関連においてもっとも忌避しているのは「先走った断定」と「「検証の拒否」です。
私は、超常現象の99%以上が現在の科学でも説明をつけることができると考えています。しかし、1%以下の中に、あるいは説明をつけた中にもっと 違う、それこそ超自然的な現象があるのではないかとも考えています。


・科学的視点

科学は「客観性」を重視する。
しかし超常現象は主観を元にしている。
立場上科学的視点からの納得と理解をしたいが、主観的視点も真偽を検証するためのスタートとしては認めざるを得ない。
ただし「何かがある」と主張するならば客観的な手続き(方法)を提示する必要がある。
超常現象関連においてもっとも忌避すべきは「先走った断定」と「「検証の拒否」である。
超常現象の99%以上が現在の科学でも説明をつけることができると考える。
しかし、1%以下、あるいは科学的説明がなされた中にも超自然的な現象がある可能性も考えうる。

これらを更に疑問の提議の形にすると。

1.科学は客観性を重視する。
“科学的視点以外(主観)”から超常現象を説明するならば“客観的(科学的)”な手続き(方法)を提示すべきである。


うーん、ちょっと違います。
科学的な検証を行っているものでもその始まりは個人の「思いつき」や「ある些細な現象に着目すること」だったりします。だから主観から始まるのは悪いことだとは思いません。
ただし何かの「存在を主張」し、それを「認めさせたい」のならばそこにはある一定の手続きが必要であり、現在最も使われておりなおかつ成果をあげているのは科学を置いてほかにはない、ということです。だから客観的な手続きとして科学を挙げているのであって、それが科学として若干邪道でも(科学の範疇から外れても)使う価値があるのならば使っても構わないと思っています。ただしその場合はその方法を使う「必然性」と「蓋然性」を説明すべきであると私 は考えます。

二つ続けてご覧ください。


 
ですが現在の超常現象の議論においては肯定派はすべての現象が超常的な力(存在)によって引き起こされているかのように言い、否定派はそれらすべてを(一見合理的な説明で)否定します。これでは意味がありません。

・超常現象に関する議論の現状

肯定派はすべての現象が超常的な力(存在)によって引き起こされていると説明。
否定派はそれらすべてを(一見合理的な説明で)否定している。
今回のこの議題において行いたいことは真実を見つけるためのふるい分けの作業であり、根拠を提示しない軽率な断定の否定である。

これらを更に疑問の提議の形にすると。

2.肯定派はすべて超常現象と説明しその根拠を明らかにしない。
一方、否定派は科学的に一応合理的な説明を行っている。
肯定派も根拠を提示しない軽率な断定はやめて合理的な根拠(科学的)説明をするべきである。


この元の私の文章は肯定派と否定派は対で書いてあります。

肯定                  中立                否定
←―――――――――――――――――――――――――――→
完全肯定派      肯定派          否定派      完全否定派

たとえばこのようにバロメータがあった場合、肯定派=完全肯定、否定派=完全否定を示しています。
つまり「科学的に説明が可能なこともすべて超常現象として信じ込む人がいる」ように「一見科学的(だけども現象の解説にはなっていない)なふりを して『科学的に解明されていない』と否定する人もいる」、こういう言い合いは(私も含めて)本人たちは言ったつもりになっているけど「ほとんど意味(価値)がないですね」と言っています。
そしてこれではいけませんね、と言っています。

となるのですがこの1と2の文章をみると自家撞着に陥っていることが分かります。

結局1は主観的現象であると認めていても最後は客観的すなわち科学的な根拠を求めていることがわかります。
2もやはり否定派は正しいか間違っているかはともかくとして根拠には科学的合理性が認められ肯定派よりその主張において優れていると考えていることが明らかです。


自家撞着に陥っているでしょうか?
1と2について論理的不整合性があるように見えないのですが自分の意見だから分からないだけでしょうか。教えてください。
また、こういう提示の仕方は卑怯なんでしょうか?
その場合は各パラグラフの赤と青のコメントを上から一つずつ読んでください。



以下同じコメント欄からのやりとりが続くのですが長いのでテーブルは挿入せずに(必要があれば入れます)続きに書いていきます。

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私が行いたいのは真実を見つけるためのふるい分けの作業であり、軽はずみな先走った断定(根拠を提示しない「ある」「ない」などの言い合い)の否定です。

・質問者の回答者に対する最大の疑問点

回答者は「先走った断定」と(科学的)「飛躍」をしている。

これらを更に疑問の提議の形にすると。

3.回答者は「先走った断定」と(科学的)「飛躍」をしている。
3はその「先走った断定」と(科学的)「飛躍」という言葉からharesoraさんの“主観”ではそのような先入観があることが分かります。
この先走った飛躍的断定というのを客観的な科学的根拠に基づき説明出来るのでしょうか?


今回私が対象としているのはcecilさんだけです。
たとえばお名前を出していいかわかりませんが、alakamuさんの主張には科学的に間違いが含まれていたり、飛躍していたりしますが、ほとんど の人はalakamuさんが「科学的である」とは考えていません。しかし、alakamuさんがおそらくは「本気で」回答しているだろうとは思っています。科学の用語を使ったとしても科学的になるとは限らないという見本だと思っています。

しかし同じような「飛躍」はあると考えています。
それが今回の私の批判につながっているわけです。
その「飛躍」の程度がalakamuさんは突飛すぎる(言い方は悪いですが根拠も主張もぶっ飛んでいる)ため誰もが気づき、cecilさんはもっともらしい根拠がついているために主張の「飛躍」に気づかれにくいのではないかと考えています。
むしろここで、なぜ(まったく無知の人に)噛み砕いて説明するために「飛躍」をしてはいけないか、と問われると困ってしまいます。おそらくそれは「私の信条である」としか答えられません。
(中略:疑似科学批判に対する私の姿勢)
たとえば「水からの伝言」や「血液型性格判断」のように広がってから「あれはウソなんです、根拠はありません」といってもすべての人にその事実を伝えるのは困難です。これら2つにしても「科学的」の程度は異なります。
「水からの伝言」は「科学的に否定されている」レベルです。また、実験がdemonstration以上のものではなくexperimentとは言い難いものです。
一方「血液型性格判断」は「科学的な根拠がない」レベルです。積極的に肯定する根拠はないが「体験談(主観)」からあるような気がする。でもそれ についても心理学や生物学的な説明ができるわけです。この場合、肯定と否定は同じぐらいの不確かさではなく、肯定する根拠が圧倒的に乏しいことがわかります。
私は「主観で判断してもいい」と考えることは「血液型性格判断レベルの根拠の乏しさで構わない」と言ってるように見えるのです。
しかしcecilさんのおっしゃっていることはそれでは「もったいない」のです。
おそらく私のやりたいことはcecilさんの方向を向いているので。私がcecilさんを一生懸命追いかけているのです。
ただ、私が言っているのは「今の時点でそこまでは言えない」という一点です。それは私が科学とか客観性を重視しすぎて凝り固まっているというのとはまったく無関係に、ある意味直観的に感じていることです。



話を戻して申し訳ないですが「根拠(科学的)」と「主張(仮説)」の間に飛躍がありませんか?
という質問でまた新たに思い至ったことがあるので述べておきます。

haresora38さんは論文や小論文を書くときに“結論”を導くには“理由(根拠)”が明示されていなければならず、根拠は“事実”(科学では実験データ)によって支えられていなければならないということを大学ではいやと言うほど叩き込まれたのではないかと思います。

従って仮説を立てる場合文章の構成は《その様な構造でなければならない》と教えられていると思います。


たとえば論文を読んでいると、
実験→結果→考察→結論
と展開させています。この部分には飛躍はありません。
ただしたいていの場合は、今回の結果から「推測すると」Aということが言えたりBということが言えたりするのではないか、っていうかもしかしたらあれもこれも全部わかるかも~と「大きなこと」が、言いかえるなら「飛躍したこと」が書いてあります。
では私はなぜこれを飛躍と言わないかというと、筆者らは「根拠はまだないけどね」と明言しているからです。
大きなことを言うのはありです。なぜなら次に行う研究はその「大きなこと」に向いているのであり、論文を読んだ他の人に対する刺激にもなるからです。
「科学の世界」では「飛躍」は「飛躍」として受け取られます。
そう読んでもらえるような書き方をするからです。
私のcecilさんへの印象は
1.仮説に飛躍がある
2.しかし飛躍があるようには書いていない
3.そして飛躍であるとは気付きにくい
です。


仮説・仮定と言えば自動的に“根拠”とそれを支える“事実”という概念が立ち上がることとおもいますが、それはargumentを書くならば守るべき原則ではあっても、私は知恵袋においては始めからargumentとして書いている訳ではなく、回答そのものも論文として書いている訳でもない のでその様な形式は踏んでいませんし、質問者もそこまでのものを要求しているわけではありません。

仮説そのものは根拠の明示抜きでいきなり掲げられており、もちろん文面上何らの事実によっても支えられていないため、haresoraさんの身に付いている仮説の提示のやり方からすると“飛躍”していると思われるのではないかと思ったのですがどうでしょう?
つまり仮説そのものではなくその仮説の立て方に違和感があり、そこから私の仮説の立て方に《欠けている》科学的手法かあるいはそれに準じる形での根拠の明示を求めているのではないかと考えると今までの話がようやく理解できる気がしてきました。
そう思って今までのharesoraさんの文章を読み直すと“根拠を真っ向から否定したことはない”という言葉からおそらく「私は始めからそう 言っていました!」と言われそうですが、単に仮説が飛躍していると言われると仮説“そのもの”の批判なのだと解釈して、その方向からの回答に終始していました。

>仮説そのものは根拠の明示抜きでいきなり掲げられており、もちろん文面上何らの事実によっても支えられていない

ええと「主張(内容)の確かさ」という点ではどうお考えでしょうか。
私が拘っているのは最初から今まで(ほぼ)その一点です。
そして私は「確かではない主張(信憑性の低い主張)はしてはいけない」とは言っていません。
「証明されたこと」と「未証明の仮説」を同列に並べてはいけません。
いえ、いけないと「私は」考えています。
知恵袋というところは議論をする場ではなくQuestionに対してAnswerを与える場です(基本的に)。
そのAnswerに何を言おうと自由です。ただし「どの程度確かな情報であるか」という情報を与えてあげるべきだと考えています。


haresoraさんが“個人的主観”で
・「証明されたこと」と「未証明の仮説」を同列に並べてはいけません。
・そのAnswerに何を言おうと自由です。ただし「どの程度確かな情報であるか」という情報を与えてあげるべきだと考えています。

と考えるていることは自由であり、その様に“ご自身が”努力されるならば私もそれを前面的に支持しますし、立派な心がけだと思います。
が、それを他の回答者に強要することは知恵袋上ではできないことであり、またその様に知恵袋上で主張してもその姿勢は評価されても主張そのものは支持されないでしょう。
もし回答に論文的厳密さや記述の正確さを求めたならばおそらくその時点で回答する意欲を失う回答者が大半でしょうし、仮に回答を寄せても基本的な“査読”に合格できる論文は更に少ないものになるでしょう。
つまりそれでは知恵袋は成り立ちません。
私でさえおそらく参加することは特にあのカテゴリーでは出来なくなります。
それは私に水準以上の論文が書けないからではなく、“科学によらない根拠”から結論をそれなりの強度で明らかにすることはとても2000字では納まらないからです。


さらりと書いてあったので見逃しましたが

>haresoraさんが“個人的主観”で
>「証明されたこと」と「未証明の仮説」を同列に並べてはいけません。
>と考えるていることは自由

である
>が、それを他の回答者に強要することは知恵袋上ではできない
とおっしゃられていますが「科学的に考えて」本気で言っていますか?
もちろん科学を用いた回答以外に強要したことはありませんが、もし科学を用いるなら前提条件にも等しい当たり前のことですよ。



そうすると今まで仮説の根拠は一度も提示したことが無いのに未だに“もっともらしい《根拠》がついているために主張の「飛躍」に気づかれにくいの ではないか”と言われるのは、仮説には根拠が必ず付属しているという無意識的固定観念から、

根拠が付随している方が確かに望ましいのですが、実はそうも思っていません。
すぐ上でもまったく同じことを述べていますが、仮説の「確かさ」のレベルに応じて説明の仕方を変えるべきだと思っています。
「どこまでがわかっているのか」
これは非常に大事なことです。
オカルトならば言わなくてもいいでしょうか?私はそうは思いません。
どんな分野でも「科学的な態度で臨む」のなら「どこまでわかっているか」というのは非常に重要なことです。私は質問者に対して「知ってほしい」「自ら考えてほしい」と考えているのでなおのことそうします。


異次元的世界を我々の次元のイメージで説明するために使っている科学的な喩えを仮説の根拠と思い込んだために「今の時点でそこまでは言えない」ということになるのではないでしょうか。


いいえ違います。

繰り返しますが主たる仮説に関する限りその根拠は一度も提示したことはなく、ただ単に霊は霊界の存在であり霊界はいわゆる異次元世界のことであると言い切っているだけです。
その異次元世界と我々の世界の実体が干渉出来ないことを“我々の世界の物理に基づく”電波の波長の違いを喩えとして説明していますが、その喩えが 説明として都合が良いからと言ってそれを根拠とは見なしていませんし、仮にそれを根拠にするとしても“それだけで”仮説を支えるに足るだけの柱としての強度はほとんど無いことは十二分に理解しています。
今まで“主たる”仮説の根拠は一度も提示していないので「その“根拠”ではそこまでの主張はできない」と言われる意味が分からなかったのですが、それは以上のような思い込みが双方にあったためではないかと思います。


私はこの部分(“我々の世界の物理に基づく”電波の波長の違いを喩えとして説明していますが、その喩えが説明として都合が良い)について「一切」触れていません。
この部分はcecilさんの提出した仮説に対する「説明」だと思っています。
仮説自体が飛躍していると言っているのだから説明が飛躍していようが例え話になっていようがそこに大きな意味はないのです。

科学的な喩え←触れてません(聞きたいですが)
―――――――――――――――――――
仮説←飛躍しているのではないかと言いました
――――――――――――――――――
根拠←否定したことはありません


この部分の文面でもやはり論文という言葉が繰り返されているのですが、どうしても私の知恵袋上の回答に論文に対する“査読”的解釈や批判を加え、仮説に対す る《根拠》と思われるものを探し出して、その《根拠》からはそんなことは言えない“飛躍”している!と言われ続けているのですが、私が論文として発表した 文章であれば幾らでもそのような批判や指摘を受けても全く構いません。
しかし知恵袋上での私の発言は私の個人的信条と学んだ知識に基づく“主観による意見”を述べているのであり、論文に必要とされる結論、根拠、事例・事実といった構造はもともと備えていないのであって、そのような文章を“論文”に対する様に“査読”をすれば様々な欠陥があるでしょう。
というより論文としては成立していないと見なされるものでしょう。
しかし本来が主観による散文(韻や文字数あるいは論文形式などの規則制限のない通常の文章。これを文学的表現あるいは文章表現上のテクニックと いっていました)であるものに対して“査読”的分析を加えて批判することはそもそもその対象としてはカテゴリーエラーであり不適切であると言わんとしているのです。

繰り返しますが私は論文を書いたわけではありません。
論文は事象・事実を“客観”で論述することが絶対原則の文章なのであって、“主観”的な文章は論文にはなり得ないのです。


私が言っている「正確さ」というのは「内容を完璧に説明しなければいけない」ということではありません。
その仮説が「現在、立証という確かさからするとどのような位置にいるのかを明言する必要がある」といっているのです。
仮説の「確からしさ」にはほとんど妄想なものからほぼ証明されているものまであります。そのどの位置にあるか、どの程度の認知度であるかを知らせないでもっともらしく(断定的に)書くのは誤解を与えませんか?
たとえば私が「霊などない」と断定したらcecilさんは「そんなことは言えない」とおっしゃるでしょう?それと同じことを私は言っているだけです。そんなにおかしいことでしょうか?
(略)
cecilさんは私が厳しいものを求めていると思いすぎです。
私はそんなに厳しいものを求めていません。


今までの対話や今回の互いに引っかかっている“根拠”や“論文”問題から見ても、私の側からもharesoraさんの印象を述べさせてもらえば、“徹底した科学主義者”というのが偽らざる印象なのです。

私が科学主義者に見えようがと科学至上主義者に見えようがと私の主張に変わりはありません。人物にレッテルを貼る行為は避けるべきです。その後の議論に支障を来します。
「私のcecilさんへの印象は」等、私が印象を語っているときはその印象が「主張」に向けられていると思います。cecilさんが心の底から超常現象を信じていようと私が心の底から科学至上主義でも「人物の社会的立場(性質)と主張は分けて考えるべき」なのです。
cecilさんが科学的な態度で臨む限り私も科学的な態度で臨みます。
それがこの議論に最も必要なことのはずです。



論文のような精確さは求めていないと言いましたが「科学的な仮説」にはそれなりの「形式」が求められます。
私が言いたいのはその「形式」と「正確さ」です。
これは「科学の信頼性」や「科学の限界」とは関係のない話ですがとても重要だと考えます。


(知恵袋の)回答は質問に対する私個人の確信に基づく主観的意見です。
ならば「科学的」に見せかけてはいけません。
についてお答えすると、オリジナルの回答についての文章構成は科学的には否定も肯定も出来ないという結論を導く部分は通常科学の範疇の知識のみを使って論理的に科学的な論証をしているのでその結論はharesoraさんも科学的では無いとは言わないでしょう。

過去回答を引用すると、

“単に科学の適用範囲はほんのわずかである、科学はまだまだ未熟であり万能ではない、科学には限界があると言い切ってお終いにしているのではなく、「科学では否定も肯定もできない」という結論を導くための論証も疑似科学でではなく現行科学の知識のみを用いて論理的に行っているつもりです。
その過程自体は完全に現行科学に準拠しており、すなわち論理全体が現行科学に依存しています。
ゆえに今までその論証過程そのものが批判された覚えはありません。
もしその論証過程が現行科学から飛躍していたら、科学至上主義的否定派に何の説得力もないでしょう。
科学至上主義には現行科学の知識と論理を用いることが最も有効な対抗手段なのです。”
(科学の適用範囲はほんのわずかである。編集日時:2008/11/5 08:10:27 )
それに対して主たる主張は未だ実証はされていなくても実験段階に進んでいる仮説であり、決して疑似科学ではありません。これもオカルト的解釈ではなく科学的 解釈が可能であることを実在する理論を基に説明しているのであって、それが飛躍的だと感じたとしてもこれも科学的ではないとは言えないはずです。
もし言えるなら何学の何理論に矛盾するのか科学的にご説明頂かなければなりません。

従ってこの“「科学的」に見せかけてはいけません。”という発言の事実関係の証明をお願いします。
出来なければ撤回を求めます。


>主たる主張は未だ実証はされていなくても実験段階に進んでいる仮説
本当ですか?
>>A(根拠):最新の物理理論では宇宙は多重次元構造であり異次元世界が3次元世界に重なる様に存在しているのではないかという説が有力視されています。
>>B(仮説):霊が存在しているのは異次元であり一見同一の空間に存在している様に見えても文字通りこの世の存在ではないからです。
>>(AであるならばBが成り立ちうる)この理論は霊界の世界観とも完全に一致しています。
Aは実験段階ですね。BはAが成り立っても成り立つものではありませんね。

そしてcecilさんはAもBも仮説であるとおっしゃいました。
仮説の見せかけを大きくしてもその中にはやっぱり根拠とそこから派生する仮説(主張)が存在します。
今回の場合で言うとAが成り立ったら即Bが成り立つわけではありません。

>もし言えるなら何学の何理論に矛盾するのか科学的にご説明頂かなければなりません。
理論に矛盾しなくても「Aが言えてもBが成り立つかはわかりませんね」といっています。確かに否定されるまでは科学的主張であるということもできるかもしれませんが、「実験段階に進んでいる仮説」であるのならBを証明するには何が必要かお答えください。この証明に必要になってくるものは evidenceですが「実験段階に進んでいる」のならば大丈夫でしょう。
cecilさんの主張は「未科学」ではありませんか?そうであるならば「科学」に見せかけてはいけません。
cecilさんの主張の全貌が明らかではない今はまだ私が勘違いしているだけとも科学的であるとも言えません。よって撤回することはまだできません。


撤回要求に関して

>>回答は質問に対する私個人の確信に基づく主観的意見です。
に対して
>ならば「科学的」に見せかけてはいけません。
と言っています。
個人の主観と科学には隔たりがあることをcecilさんはご存じのはずです。主観的に答えるのならば「確信」の内容を話してもらわなければ「科学的」でないのではないですか?



この疑問に対する回答はまだもらっていません。
おそらく根拠の話でこじれたからでしょう。
今後、対話を再開する場合は避けて通れない疑問なので改めて確認しておく必要があります。

また、飛躍に関してはアインシュタインの段でも述べています。
アインシュタインのところでは私の知識不足もあり話が噛み合っていませんが、双方で重要なことを述べているので後から差し込む予定です。というか当初の質問1なのでまとめ次第リンクを貼っておきます。





以下に、私が物差しとして科学が適切であると考える理由を述べています。
また他に優れた方法があればその有効性を示してもらえればすぐにその方法を採用すると述べています。


これ(おばあちゃんの知恵袋等)はいわゆる「帰納法」から導き出されている「事実」です。
「AをしたらBが起こった。だからAはBの原因である」というものですね。
だから合っているものもあるし間違っているものもある。じゃあもっと蓋然性の高い方法はないの?というところからいわゆる「科学」という手続きが 体系化されたんじゃないのかなぁと思います。いやいや、あまり適当なことは言えませんね。しかし特に自然科学の分野では「科学」という手続きはとても成功 しているように思います。もちろんそれは「すべてを理解できているか」「すべてを間違いなく把握できているか」という意味ではなく、事象を合理的に説明で きる手段としてある程度上手く機能しているということです。
現在すべての事象からみて分かっていることが4%だろうと1%だろうと0.01%だろうと「科学」以上に成功しているものはないというのが私の意見です。だから「科学」を使うべきである、と。
まだまだ説明できないことはたくさんあるし、完全とは言い難いし、科学的手続きでは見落としてしまうものが多いかもしれないということもすべて理解した上での主張です。
現在の知識体系では「AをしたらBが起こった。だからAはBの原因である」というレベルの認識では「足りない」のです。だから「科学」がいいと考えています。たぶん、cecilさんの
>しかし宇宙も地球も(中略)まず“理解”することそれから“解釈”を合理的論理という科学的思考過程で検証する方法でしか納得のいく結論は導けないでしょう。
という文章から「科学は不適であるのかしら」という私の疑問が想起されています。そして、やはりこの文章を見るとそう思わずにはいられません。
私は「科学」が良くないのなら「科学」には拘りません。
いえ、それでは語弊があります。「科学」よりも優れた方法があり、その方法を取ることでみなさんを納得させることができるというのならすぐにでもその方法を採ります。



次に続く話で”蓋然性のある根拠”という話がでてきますが
蓋然性という言葉は「それが科学として若干邪道でも(科学の範疇から外れても)使う価値があるのならば使っても構わないと思っています。ただしその場合はその方法を使う「必然性」と「蓋然性」を説明すべきであると私 は考えます。」および上記の私のコメント中の「じゃあもっと蓋然性の高い方法はないの?というところからいわゆる「科学」という手続きが 体系化されたんじゃないのかなぁと思います。」の二つにしかないのでここに差し挟みます。本来ならもっと上の方に置くのがいいのかもしれません。



今までの対話を振り返ってみて“科学の範疇ではなくても蓋然性のある根拠”とは、“合理的な納得が出来る”という意味であることは容易に推測され、結局は“ 科学的”という言葉の言い換えであり、その意味で言い換えるならば“科学的に実証されていなくても科学的思考・手法でその結論に至れれば”という意味であろうということです。
つまり西洋的合理主義自体は絶対に捨てられないという、根本的信条に反しなければということであり、目下は科学が最も事象の解釈の物差しとして適切であるという信念に対立しなければという意味でと解釈しています。

そこでその金科玉条とする価値観を私からの示唆によってではなく“自ら自然に”その価値観を疑うようになれないか、少なくとも全く別な物差しもあり得るということを自分自身の考えで納得して受け入れてもらえるための突破口を作ろうと様々な“科学的事実”を事例にあげて科学の不完全さ未熟さと異次元 世界の物理を想定した場合の物理の限界を繰り返し述べてきたということです。
納得するとは教えられてできることではありません。
自分の理性がそう判断して受け入れることが真の納得というものです。


>目下は科学が最も事象の解釈の物差しとして適切であるという信念に対立しなければ
>少なくとも全く別な物差しもあり得る

ええと、これについては以前にお話ししましたね。
「科学が不適であるならば使うべき物差しはなんですか?」と。
それに対して

>この問題を解決するに最も適する物差しは“科学”です。
とおっしゃっていましたね。
これについてもう少し詳しい説明をお願いします。



この回答のポイントは現行科学の限界はともかくとして、余剰次元の物理をも視野にいれたいわば多次元科学全体の基本的構成要素としては全面的に現行科学を肯定しているという点です。

私が“科学的”表現を使用している部分では総て現行科学の知識に基づいているのは、私の世界観がオカルトではなく、科学と共存可能な現実的テーマであることを主張するためです。

霊や霊界というテーマをオカルトとしてではなく、まるで当然のごとく現実的な存在として語るということです。
その様に語ること自体に意味があるのです。

従ってオカルトと見なされる説をそのまま主張の根拠とすることは出来ないので現行科学の言葉のみで説明をしています。
そうでなければ否定派に限らず閲覧している中間派にも全く説得力を失います。
と同時に主張の根拠そのものはその提示が簡単ではないことが最大の理由ではありますが、仮にそれを説得力の不足した中途半端な形で提示することで再びその主張全体がオカルトと見なされることを避けるため意識的に提示していないのです。
それゆえ《根拠》は一度も提示したことがないと言っているのです。
その代わり参考文献や出典を明示する様に努力していますが、文字制限のため総ての回答でその様にすることはできません。

また文章の構造はまず否定派の論拠を崩す部分は徹底的に現行科学に基づいて説明し、主張そのものも現行科学の延長線上に仮定し得ることを、現時点では証明されていない理論ではあっても少なくとも実証試験には漕ぎ着けた現行科学の理論を基に示唆しています。

つまりオカルトとされている事象と現行科学との橋渡しを、可能な限り現行科学の範疇で説明しようとしているのです。

それは今日まで科学と非科学として鉄のカーテンが引かれていた境界線の撤廃であり、それを肯定側から見ても否定側から見ても飛躍であると思われることはやむを得ないことでしょう。
それでも今使える限りの現行科学の知識を用いてそのギャップを可能な限り埋めようと努力しているということです。

すなわちオカルトを科学の言葉で巧みに言いくるめようとしているのではなく、オカルトと見なされていた事象を科学的に説明し得ることを示そうとしているのです。


「まるで当然の如く現実的な存在として語る」ことと「現行の科学の言葉のみで説明」することは同じ意味ではありません。
>そうでなければ否定派に限らず閲覧している中間派にも全く説得力を失います。
そんなこと知ったことではありません。
「科学の言葉で語らなければ説得力を持たせられない」ことに問題があるのではありませんか?
「科学」は「説得力を持たせるための道具」ではありません。
また「説得力があれば真実である」わけでもありません。
このあたりは「スタンスの違い」かもしれませんが「科学を用いる者」としては不適当な態度であると思います。
科学の言葉で言い換えている時点で飛躍が起こっているのです。脚色も誇張もいけません。

「科学」の用語を用いるということは質問者さんに対して責任を取るということだけでなく「科学を使うすべての人」に対して責任を持つということですよ。
>そうでなければ否定派に限らず閲覧している中間派にも全く説得力を失います。
という言葉と
>現実には科学は我々の住んでいる世界の事象すらほとんど解明出来ていません。
という言葉をもって
>「科学的に証明されていない、科学的根拠がない、科学に反する、非科学的」
という否定意見を一顧だにせず切って捨てる態度はダブルスタンダードではありませんか?

これらにはすでに解決したはずの1~4に対する疑問が入っています。



このあと根拠の話にシフトしていっているのですが、もしかしたら物差しの話はそちらに移っていたのかもしれません。その時に私には(今もなお)理解できませんでしたが。
続けて根拠の話に移りたいのですが、長すぎるので別の記事にします。
また、1~4の疑問に関してもまとめしだいリンクを貼ります。

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